詫びながら働いた
元ブログからの記事・加筆して掲載します。
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仕事を辞めたのは伯母の大怪我がきっかけだった。
低空飛行ながらも、なんとか生きてこられたのは現在の夫や子供たちの存在があるからである。
働いていた日々。
体調が悪く、朝方救急外来に行き無理やり落ち着かせ仕事に行った。
癌の手術後、10日の入院を経て退院し、その4日後に出勤したり。
わたしは日給月給なので、休めばその分手取りが減る。
米に換算してしまうのが、悲しくもおかしくもある日々だった。
そう言えば相変わらずほとんど食料品しか買わないな。嘆くこともないのだけど。
わたしが働きに出るようになったのは、息子が小学校に入った年だった。
子供たちはとても仲の良い兄妹だった。夏休みなどはふたりで過ごしていた。妹を邪魔にすることのない兄、ニコニコと兄の友達とも仲良く遊ぶ妹、そんなだから兄の友達からも邪険にされることがなかった。
ふと思い出した。
子供に詫びながら働きに行ったこと。
熱が出た子に
「ごめんね。午前中だけ我慢してね。昼には時間貰って帰るからね」
あるいは、バタバタと朝一で病院に連れて行き、家に戻って寝かせ、お弁当と飲み物と薬を置いてから出勤した。
子供たちは言いつけ通りに待っていて、熱のある火照った顔が健気だった。
わたしだけが頑張っていたことなど一度もないのだ。
「かか いつもおしごとごくろうさま」
折りに触れ、息子や娘が作ってくれたお守りと手紙は、ぼろぼろになっても、仕事を辞めた今も大切な宝物だ。
写真は娘が8歳の頃に作ってくれたものである。
白抜きの部分にはわたしの会社の名前が書いてあった。
退職する日、終礼であいさつした内容もあまり覚えていない。
立派な花束をいただき、ラビットのマフラーをいただき、寒いのに全員が外に出て見送ってくださった。
「早く戻ってきてね」
「待ってるよ」
有難いことだと深々頭を下げた。しかしもう次にすることがあった。入院した伯母の看護や、施設への入所手続き、伯母の家のことなどに忙殺される日々が待っているはずだった。
自身の来た道を振り返ることも無い。
そんな私への限りない労りを、娘からのメールで知ることとなった。ガラケーの画面が懐かしい(笑)。
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