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貰い湯

元ブログより・2020年01月13日に書いた記事です。

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伯父伯母の家には、サザエさんの古い初版本が何冊もあった。
退屈していた私は、広い屋敷の誰も使わない二階の、天井の低い狭い部屋の押し入れにあったのを見つけ、色褪せ、かなり古いそれらを読んだものだった。
冊数はあっても通しではなく、初期のとあとのほうでは、絵柄が違っていた。サザエさんの顔やスタイルが違ってきたし、初期はモンペに下駄をつっかけていたリ、自分で仕立てた服を着ていたが、高度成長期あたり?は流行のファッションに身を包んでいた(笑)。
長い歳月の連載だから、作者も時代の移り変わりに敏感だったのだろう。

それにしても時代がかった言葉が多い。

「貰い湯」
「銭湯」
「三助」
「婦人週間」


銭湯と貰い湯以外は意味がわからなかった。

いずれにしても昭和の終戦直後からの話だから、祖父母や親の世代にしかピンとこないだろう。

貰い湯は経験がある。
母が病弱で小学校に上がるまで伯父伯母に育てられた私だが、彼らの屋敷には当然風呂があり、風呂好きな彼らは朝晩湯をつかったものだ。

私が入学した小学校では、父が用務員をしていた。田舎の山奥だったから、教員社宅は小学校の隣に一軒だけ。そこには5年生担任のk先生一家が住んでいた。他の先生方は、殆どが近在で、バスか、自転車通勤ばかり。車で通う先生は少なかった。

両親は校内の用務員室を借りて住んでおり、その外にも宿直室があって、当時は男の先生が交代で泊っていた。
夜、校内の見回りと、防犯のためである。
食堂が近所に一軒だけあったので、大概の先生はそこで済ませたのだが、何故がウチに来て食べる先生が二人いた。

教頭先生と、もう一人の教諭で、父が母の病弱に苦労して、やっと親子で暮らすようになった事情を知っていただろうし、懇意だったのだと思う。

夕飯を出すのは母の仕事で、料理下手な人だったけれども、果たしてどんな気持ちで支度していたのだろう。

それでも先生が食べにくる時は普段よりおかずがちょっと良くて、私が言いつけられて宿直室の先生を呼びに行くと、先生も嬉しそうに用務員室に入ってくるのだった。

大人がどんな話をしていたがよくわからぬが、いかめしい先生が寛いだ表情になるのが面白かった。

何故か校長先生が時々乱入した。

学期末の慰労会を会議室か何処かでやった時だったと思うが、飲んべえの校長がすっかり酔っ払って担がれてくる。

帰宅するにも近くにタクシー会社などないし、校長先生はもうすっかり寝てしまっているし、私は子供心に、校長先生は偉いのか偉くないのか、何故いつもここまで酔うのかわからなかった。

親たちは当然迷惑したと思うが、毛布や布団を出してかけてやり、担ぎ込んだ先生たちも捨て置いて行ってしまう。

私は騒ぎ半ばで寝てしまうのが常だった。

朝起きると校長先生はいなくなっていた。

誰もが何ごともなかったように朝礼なんかでいかめしく立ち、田舎の子供たちに目を光らせていた。

私だけが知っている大人の秘密、そんな愉悦があった。

それにしても、親が働く場所、ましてや学校に子供も通うなんて。しかしながら公私は使い分けていた。私は父をむしろ避けていた。

イタズラをして職員室に呼ばれたりする時、父がいると実にバツが悪く、いないとホッとして先生に叱られていた。先生もそこら辺の加減は知っていて、わざと楽しんでいたと思う。

さて、貰い湯である。
学校には風呂場はなかった。
私は親元に来る前は、毎日過保護にされていて、風呂も当然毎日入り清潔を心がけることを教えられてきた。

母は代行員といって、ほんの少し父の手伝いをする程度で、表立つことは一切なかった。病弱ながらもおっとりした性格で、先生方や近隣の人たちには好かれて、可愛がられてもいた。

しかしながら私は、実子とはいえ慣れない子育てである。
伯母がしてくれたようなことはしてくれなかった。
どうして良いのかわからなかっただろうし、私もあれこれ要求するのは遠慮があった。

が、それ以外は子供だから田舎の暮らしにはすぐ馴染み、街中のような便利な場所はなくとも、野山を友達と駆けまわるのは本当に楽しかった。
駆け回るから当然汚れる。が、風呂はない。

普段はタオルを絞って清拭する程度だった。

父は汗を流して働いていたが、何故か風呂をあまり好まない。

「お湯ッコさございん」

と声をかけてくれるお宅が近所に三軒あったが、多分に遠慮があったのだと思う。

それでも週に3度位はお湯を貰いに行った。
一番お邪魔したのは教員社宅の先生のお宅で、夕飯の後、大概父に連れられて行った。

ふたつ上のマユミちゃんという子がいて、私を手下のように扱っていた。

彼女はビアノを習っていたが、普段の練習は学校にあるアップライトである。一人ではつまらないと見え、私にいつも付き合わせた。といっても弾くのは当然マユミちゃんだけだ。

私は何度も同じところでつっかかるマユミちゃんのビアノに飽きてしまい、ウンザリしながらも、マユミちゃんは顔も体も勢いがある、ジャイ子みたいな子だったので耐えるしかなかった。

そのマユミちゃんも、夜会うと、親の手前もあるのかしおらしく、少し照れ臭そうに私を迎えてくれた。

父は遠慮しながらそそくさと湯を使わせていただくのだが、その性格を知っている先生夫妻は
「湯冷めしないようにゆっくり温まって」
と、優しかった。

上がるとコタツに呼ばれ、ミカンやお菓子をご馳走になった。
父はいかなる時も正座で、いつも深く頭を下げ礼を言っていた。

母と一緒というのは覚えていないから、父とばかり入っていたと思う。母は昼間のうちに行水をしていたはずだ。

まだ小1だから、貰い湯にこれといった感慨などなかったが、使ったタオルを父が緩く絞るのを私が、
「もっとちゃんと絞れるよ!」
と、父の手から小さく薄いタオルを奪い取り、ギユーッと絞るのを父はニコニコして見ていた。小さいタオルだから何度も拭って、絞って…。

何くれとなく心を砕いてくれたのは父の方だったな。

貰い湯は1年だけで終わった。
翌年父は別の小学校に転勤になり、慎ましい家財道具と共に私達は、また次の学校の用務員室に移った。

その校舎は新しく、風呂場もあった。
それまで入っていたのはどこでも木桶だったが、その学校のは明るいタイル張りであった。
先生の宿直はその年が最後だったが、先生も私達も内湯があるのは助かった。

殊に両親は気兼ねがなくなって風呂をたてられるので、ずいぶんホッとしたと思うが、私は何もない田舎の、夜の貰い湯のお出掛けが無くなりちょっぴり残念だった。

この学校でも、何人かの先生は、私達と夕食を共にした。
山菜の頃は特に話が弾んでいた。

母のワラビのお浸しと、蕗の煮付けは実に評判が良く、料理苦手な母の面目躍如であった。
不自由で貧しい暮らしだったが、幼かった私にはホッコリとした思い出である。

更に翌年、父は町の中心近くに二間だけの小さな一軒家を無理して買った。勤務先はそのままだったが、私はまたも転校になり、ギャングエイジとなり、もう父と一緒に風呂に入ることも無くなった。


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