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「お笑い」におけるメタ表現




はじめに


今回は大好きなお笑いについてです。

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「芸術(技術)は自然を模倣する」という言葉を残し、その言葉は現代においても広く知られています。
これは言い換えれば、芸術と呼ばれるものは何かしらの擬態であって真実ではないということでもあります。
この模倣(ミメーシス)は、例えば絵画ならば画布に塗りつけられた顔料を風景や人物に偽装することとなり、演劇では、俳優はその名前や生い立ち、職業を擬装します。

しかし芸術は、その擬態が完璧なものであることが必ずしも求められません。鑑賞者はその作品が現実やドキュメンタリーではなくフィクションであることが分かれば、その芸術の嘘を受け止める姿勢に入ります。すなわちその偽装の共謀者となるのです。人形劇で人形師がどのように巧みに人形を動かそうとも、それをそのまま生身の人間であると信じられるわけではないでしょう。

そのような芸術、演芸の性質を暴き出し、なおかつその行為自体をも芸に組み込んでしまう技が「メタ・フィクション」であると考えました。
本論では主に現代日本の「お笑い」文化の視点から「メタ的」であることはどういうことかを探っていきます。



1,様々な分野におけるメタフィクション


はじめに でも書いたように、芸術は様々なやり方で現実を模倣することによって鑑賞者をその世界の中に誘っているが、それをメタフィクションとして見せるためにはそれぞれの媒体(メディア)に立ち返る必要があるため、同じメタ表現でもメディアによって大きく異なっている。

まず、アニメの世界では、キャラクターは実在して生きているわけではなく、アニメーターによって描かれたイラストの連なりである、と表現することがメタ的である。
代表的なものとしてはアニメ『新世紀エヴァンゲリヲン』の26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」や、その劇場版である『シン・エヴァンゲリヲン』、アニメ『妄想代理人』の第十話、「マロミまどろみ」がある。

そして漫画では、キャラクターに「〇ページもつかって〜」などとその世界では実際は知り得ないはずの情報を言わせるという手法がある。他にもキャラクターがコマを跨いだり押し上げたりするなど、他の表現方法ならば不可能なメタ手法が主にギャグシーンとして発展している。

生身の人間が別の人間を表現する演劇では、俳優がその役ではなく本人に降りることによって比較的簡単にメタが成立する。テレビドラマや実写映画では、カメラレンズに向かって本来ならば想定されていないはずの鑑賞者に呼びかけるなどといった手法が見受けられる。

では、「お笑い」におけるメタ表現とはなんだろうか。現代、日本で「お笑い」として広く浸透している演芸は非常に大きく「漫才」と「コント」に分けられる。筆者はその2つを軸に、お笑いにおけるメタを考察していく。

2,漫才におけるメタ表現


漫才は、その極意として「素のキャラクターを活かす」と言われているように、基本的に自己紹介では普段活動している芸名を名乗り、その本人同士の掛け合いとして披露する。
はじめから自分達は芸人であり、客を笑わせることを目的として舞台に立つことを前提としている。演劇は基本的に観客を透明なもの、いないものとして扱うが、漫才は客席に向かって語りかけている。その点において本来の意味でのメタ手法は成立しづらい側面もあるが、代わりに「漫才」という形式自体の異常性を「イジる」ような漫才が「メタ漫才」として呼ばれることがある。アルコ&ピースの『忍者』や、四千頭身の「前半に畳み掛けるな」というツッコミもこれにあたる。

中でも、お笑いコンビ「天竺鼠」は、お笑いそのものを「フリ」にしたネタを数多く持っている。漫才のはじめに観客を笑わせる「ツカミ」の部分で、下記のような行動をしたことがある。

川原「(マイク横に靴を置いて)場所取っといたで」

瀬下「とっとかんでいいねん」

川原「知らんツッコミが来たら困るからな」

瀬下「今まで来たことないやろ!」

これは漫才コンビには決まったボケとツッコミの2人がいる、という暗黙の了解を逆手にとったボケだといえる。

また、漫才の形式をメタ的に見ることをごく先端的に打ち出したものとして、お笑いコンビ「海砂利水魚」(現『くりぃむしちゅー』) の漫才「新しい相方」がある。
ネタ冒頭、ボケ役である有田は芸人引退を宣言し、相方である上田に新たな芸人をあてがおうとするが、そこでステージに持ってきたのは全裸のマネキンと、録音した音声を流すシンセサイザーである。そしてそこから、上田とマネキンによる「漫才」が仕切り直されることとなる。
その漫才はまず、本来ツッコミである上田がボケの役割を担う。そしてそれに対し有田がマネキン側からシンセサイザーで音声を流す。しかしそのツッコミが支離滅裂であるため、上田が再度ツッコミを入れ直す、という構成で進んでいく。


マネキンと漫才をする海砂利水魚上田と音声を操作する有田


本来ならば、ツッコミという役割は世間一般の感覚の代弁であり、ボケによって起こされた心理的不安、緊張を緩和させる役割がある。しかしそのツッコミ自体が常識から「ズレて」しまっている、という状況は、本来の漫才の形式をしっているからこそ違和感を感じるものであり、その違和感を上田の「ツッコミ返し」が解消しているのである。
そしてその「漫才」の合間に、上田は音声を操作している有田の元へ向かってメタなツッコミをいくつも行う。しかしそのやりとりすらも前もって決められたものであるため、全体として一種のコントのような雰囲気が流れる。
つまり、前もって決められて客前に出されるはずの漫才のやりとりを、舞台上で作り上げている風を装ったやりとりなのだ。

3,コントにおけるメタ表現


コントでは漫才とは程度の差はあるものの、本人とは違う役柄を演じている。演劇とほぼ同じような構造で、セットに衣装や小道具も用意されている。
これは言い換えれば、漫才よりもメタ視点を取りやすい演芸であるともいえる。

まず、天竺鼠の「家族」というコントを挙げる。
このコントでは、ツッコミの瀬下は母親役としてコントでありがちな女装をし、中年の女性のような喋り方をしてコントをはじめる。そこにボケの川原が「ひろこ」という娘役で登場するが、川原はいつもどおりの坊主頭でかつらも被らず、グレーの背広姿で登場し、客席は盛り上がる。その後も背広姿の男性が、声色も変えずに客席を見ながら、少女らしい台詞を淡々と言い続ける。母親役の瀬下もその男をアイドルを目指す娘として扱い、それにツッコむこともない。


「アイドルを目指す女子学生」を演じる川原(右)とその母親役の瀬下


このコントでは、「コントの中ではどんなに不自然な仮装であってもその役だと思って見る」という暗黙の了解を逆手に取っているようである。じっさい、かつらをかぶってスカートを履いたツッコミの瀬下もとても女性のようには見えないが、「そのように見てほしい」という記号としての母親像を観客に見せていた。しかし、女子学生になりきる気がまったくない川原の存在に、観客はどのように反応していいのかわからずに結果としてシュールな笑いが発生する。
その後、同じ容貌の川原が演じるキャラクターはどんどん増えてゆき、瀬下は第一声を聞くまでは川原が何を演じているのかわからないという、普通の演劇ならばあってはならない事態に陥る。

また、代表的なメタ・コントとして、同じく天竺鼠の「修理屋」がある。
はじめは川原演じる修理屋がボケて、それに修理を頼んだ瀬下がツッコむという構図が繰り返される。
しかしその後、川原はこのエアコンはそもそも動くはずがないと発言する。何故かと瀬下が聞くと、「これはパネルだから」と返す。
観客はざわめきながらも大笑いする。
狼狽える瀬下に、川原はさらにエアコン(とされていたパネル)を取り外し、「これが今まで動いてたのか」と驚愕する。
その後も川原は、次々とセットを取り外したり裏面を見せるなどをする。すると、これまで変人であり異常な「ボケ」であった川原よりも、パネルの中で暮らしパネルで作られたエアコンを修理するように頼んだ瀬下の方こそ異常なのだという感覚が伝わってくる。どちらが異常なのか、はたまたどちらも異常なのか判然としないままこのコントは幕を閉じる。


コント中に「家」のセットの矛盾を指摘する天竺鼠川原

ここで起こる笑いとはなんだろうか。それまで安全な世界から演者によって見せられる虚構を楽しんでいた観客は、突如として嘘の共謀者という役割を演者から指摘されることになる。川原が行ったのは、アンデルセンの児童文学『裸の王様』において、聴衆の前で王様が裸であることを指摘する少年の役割である。

前述の「家族」がコント中の仮装と約束事を「フリ」としているならば、この「修理屋」はコントにおける簡易的なセットと約束事を「フリ」にしているといえる。

尼ヶ崎彬は『芸術としての身体』の序文でこのように述べている

レヴィンは(中略)かつて劇場の中の観客は、肉体をもたない、単なる眼ばかりの存在のように、闇の椅子に座っていた。しかし前衛演劇は、観客にとってまず自らの身体を現前させた、というのである。

笑いを伴うコントにしても、順当に演じられれば演劇と呼べるだろう。しかし一度メタ手法をとられると、観客はもはや「眼ばかりの存在」ではいられなくなる。天竺鼠のコントはその意味で、前衛演劇のようだとも考えられる。

また、コントという演劇の中に演者本人を感じさせるメタ的表現の他の例として、「さまぁ〜ず」のコントが挙げられる。さまぁ〜ずは単独ライブの中にほぼ毎回、ゲーム性のあるコントを入れている。2人は自分ではないキャラクターを演じてはいるが、そのキャラクターは本人達に限りなく近い。そしてコントの世界観を維持したまま、バランスボールの上を滑る、大縄飛びをする、などの本人にも当日実現できるか不明な挑戦を観客の前で行うのだ。そういったコントは単独ライブの終盤にあり、観客はもはや彼らが演じている役のことは忘れて演者本人を応援する姿勢に自然と移り変わることができる。


大縄飛びに挑戦するというコントの中で、本当にチャレンジをするさまぁ〜ずの三村マサカズと大竹一樹


この手法が単独ライブに良い役割を果たしている理由として、決められた、本人にとっては可能な動作をしているという安心感から観客を引き離す効果があることが挙げられる。それはよく考えられ、十分な練習をしてきたものを見せることを前提としているパフォーマンスの中で、バラエティ番組のようなスリルを成立させる手法といえる。
また、このコント内チャレンジは日ごとに出来栄えが変化するため、終演後の挨拶に演者自身として触れやすいというメリットもある。
2人で大縄飛びをするチャレンジの中、いつまで経っても成功しない状況に大竹は「終わらないよ」と観客に向かって叫んだ。その行為によって、これまで透明な存在として舞台の上の出来事を観察していた観客は、観客であるという自らの特性を引き出されたというべきだろう。

まとめ


主に現代日本で「お笑い」と呼ばれる演芸を例にとりながら、メタフィクションを分析してきた。
筆者はこれまでの分析を踏まえ、「メタ的表現」とは
作者—作品—鑑賞者
という芸術・演芸の基本の型を、作品の内部では通用しない種類の表現を置くことで取り去り、一気に
作者—鑑賞者
という、やや不快でもある真実を鑑賞者に突きつける行為であると考えた。しかし、これはともすれば「上手に嘘をつくことができない故の破壊的行為」とも捉えられかねない。また、鑑賞者側に作者の存在を不用意に近く感じさせてしまうという危うさもはらんでいる。
そのため、作品をより充実させるためにメタフィクションを用いることには高度な技術とバランス感覚が求められるだろう。
もう一つ考えられるメタ表現の特性として、

「作者」が「作品を構成するメディア」と戯れる様を鑑賞者に見せる
ことが挙げられる。キャンバスに飛び散った、他の何も模倣していない絵の具は、画家と絵の具の戯れを容易に鑑賞者に想像させるし、漫才の構成を暴露する漫才は、ネタ帳に案を考え出し、練習を重ねる芸人の姿が示されている。
よく、メタ表現をする漫才が「玄人受け」と評され、お笑いファン以外の目に触れる「M-1グランプリ」などの大きな大会では嫌煙される傾向にあるのは、「メタ漫才・メタコント」は演芸ではなく演者自身にも興味がある人にとってこそ価値のあるものだからだと考えられる。舞台裏まで知りたいと思わせるほど熱狂的なファン、もしくは漫才の基本の型を知り尽くしているからこそそれを壊すような構成を求めているファンに、「メタ漫才・メタコント」は強く訴えかけるのだろう。

西洋における絵画芸術は、現実の視覚的な模倣であることを否定し、そのメディアを全面に押し出す表現を始めたことで大きな変革期を迎えた。しかし日本の漫才やコントの文化も、大規模なTVの賞レースの人気にも後押しされ独自の発展・進化を遂げている。そして、それぞれの型がこうである、という認識が強まるほどにその型をメタ認知することの面白さもつのるのだ。

 


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した!“2022/1/13 https://babychamp-blog.com/2021/05/29/manzai openings/ (2023/7/20)
2 DVD"海砂利水魚単独Live「ジャイアント」"(2007).
3”天竺鼠コント「家族」"2017年10月tps://youtu.be/bvPosU70M8c (2023/7/20)
4 DVD”天竺鼠5”(2017).
5 尼ヶ崎彬編“芸術としての身体"勁草書房,(1988),pp10.
DVD"さまぁ〜ずLive13“(2022).

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