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確実な幸せなどあるのだろうか


“天動説の教育に疑問を抱いたデカルトは、正しさの証明を探求しようとする。 数学には確実性があると考え、数学の道に進む。 《1+1=2》なのは確実。 正しさは万人共通。 他の学問は、正解が万人共通の認識じゃない。 神を信じている人はいるが、全員じゃない。 そもそも神が実在しているかどうかも分からない。”

上記のように、数学は確実性がある。
デカルトの言う通り、自分の意識があるのもたしかに確実と言える。
だけど幸せの確実性ってよく分からない。
世間の定義が曖昧なのはもちろん、自分もよく分からない。
《熱中すること》と言う人もいる。そうなのかもしれない。だけどそれも全員そう言ってるわけじゃないし、言葉のニュアンスと気持ちに差があるようにも感じる。
熱中できてなくても、人生の中で《幸せ》を感じてる瞬間があるかもしれない。

数学や意識といった確実なものが分かったとて、人間は主観的な生き物。
どうしても曖昧なものに頼らなきゃいけないというか、事実に対して歪んだ解釈をしてしまう。
 統計データは数字なので嘘をつかないが、それを見て楽観的に考えるか、悲観的に考えるかはその人の主観。
どう頑張っても、どんな人間にもバイアスはかかる。

 この世が仮想世界であったとして、その中でも数学は確実。
考える自我があるのも確実。
人間が生物なのも確実。死ぬことも確実。
電気で電球が明るくなるのも確実。
生殖行動で妊娠するのも確実。
声帯で声を出しているのも確実。
空気中に酸素があるのも確実________

事実、確実なものを解明することに意味はあるのだろうか。
数学は確実なんだろうが、それは《人間が死ぬ》ということを知るのと同じ。
それを知ったところででしょ。どうにもならない。人間はそれに対しての解釈しかできない。
 
 確実なものを明らかにしても、幸せへの確実な答えは全く見つからない。
この先人間が万物の確実さを明らかにしても、主観はどうにもならないんだろうな。

幸せは主観的なものだから、
事実からは生まれない
。これも確実なことなんだろう。

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