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嫉妬する法則

僕の場合は評価されている理由が分からないと嫉妬する

「なんでこんなのが持て囃されるんだ?」
と。
 
僕には自分の感性が全てだと思っている節があるようだ。傲慢すぎる。

理由が分かれば嫉妬しない。
「まあ当然だよな」
となる。

鬼滅の刃が流行った時は、いい気持ちになれなかった。

千と千尋の神隠しの興行収入を超えたあたりで完全に嫌になった。
自分基準で過大評価されているというジャッジをしたものを見ると、許せないものが増えるとストレスも増える。


逆に過小評価されていると思うものを見ると安心する。
「この人で評価されないなら、自分だって評価されないよな」と。結果の出ない自分を正当化できる。
運が悪かっただけだ…と。

実際そうなのだと思う。
しかしそれで安心してもモヤモヤは無くならない。自分にとって気に入らない奴は評価されているのだから。
「なにが面白いの?これ」
と。
大多数の人はそれを特に抵抗なく、また、深く考えず受け入れられるのだろうが、僕の場合は受け入れないで他に好きなものがないか探す。

よく「〜だから売れた、人気になった」という言論や風潮を見かけるが、結果論かつ生存バイアスじゃん!と思う。
つまり運が良かっただけだと思う。

鬼滅の刃がそうだ。
しかし流行ってからだとストーリーが良く見えるらしい。
周りが良いと言うから自分も良いように感じるのだろう。この現象、心理に名前をつけて欲しい。
同調圧力のようなものだろう。
バンドワゴン効果に近いが、あれは入口が良く見えているだけだ。
鬼滅の刃現象は、他社によって全部が良く見えている。

ゲド戦記は逆だ。周りが悪い、面白くないと言ったから、入口も内容も良くないものに感じる。
最近だとえんとつ町のプペルがそうだろう。
一度大衆に下された評価は覆らないし、それを知ってからだと自分が見た時も、大衆のネガティブな評価がチラつく。
そして面白く感じにくくなるのかもしれない。

罪悪感を抱くのに似ている。自分としては悪い事だとは思っていないのに、とろうとしている行動は、周囲がネガティブな評価を下しているものなら、罪悪感を覚える。
僕でいうところの転売や死体蹴りだ。

人間は他者の欲望を模倣する本能があるらしい。
化粧、二重、細身、巨乳、長身…良い悪いの基準を刷り込まれている。しかしそれは思い込まされているとも言えるのだ。

やる前から「これは売れる確信がある!」と豪語していたり、流行る前の初期から楽しさを嗅ぎつけて1人だけ夢中になっていないと後出しジャンケンにしかならない。
大体こういう「初期から売れると思ってた!」とか「〜だったから売れた」と言っている人間は、流行る前は小馬鹿にしていて手のひらを返しているパターンがほとんどだと思っている。そこがまた嫌だ。ニワカだというのが目に見えている。

万人に共通する正解がほしい。でもそれは自分が1番好きなものであって欲しい。
自分に良さが分からないものが、世間にとっての正解であってほしくない。

しかし人気になるかならないかは結果論で《なるべくしてなった》というものはない。

不正解はあっても正解はない。つまり運だ…ということを自分に言い聞かせておく。

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