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訃報

最近芸能人の訃報が毎日届く。
昨夜呟いた通り私は訃報が苦手だ。
もちろん得意な人がいないのは分かっている。
でも昔から訃報を聞くたびに血の気が引いて動悸がして眩暈がする。
子どもの頃から死が異様に怖い。
とある物語を見て、苦しくて辛いものだと強く記憶に刻まれたのが原因だと思っている。
後は比較的物事が判断できるようになった頃、相次いで身内を亡くしたこともきっと大きかった。
コロナ禍を経てお葬式と言う場も随分変わったが私が子どもの頃は知り合いをたくさん呼んで行うのが普通だった。
それを2年連続で経験した。
子どもだった私に大勢の大人が泣く姿は異様に映った。
その光景に恐怖を感じてしまった。
自分の体を動かすことすら自由にできないほどの不安に苛まれていた私に身内は「冷たい子」と言い放った。
そう。
周囲から見れば涙の一つも流さず、無表情で、ただ言われたことを淡々とこなすだけの私は怖かっただろう。
亡くなった人たちと私よりずっと多くの時間を共有した大人達に余裕がなかったのも分かる。
だけど私の言葉に表せない様々な感情はないものにされ、それ以降「冷たい人間」のレッテルを貼られてしまった。
私はその場で叫びだしてしまいそうな感情を抑えるのに必死だっただけで悲しくなかった訳ではないのだ。が、訂正する機会を失ったまま今に至る。

あとどうしても理解できないのが訃報を聞いた時、あれこれと背景を話してくる人。
身内ならまだしも芸能人の訃報の場合、とにかく話したがりの人っている。

「あの人はこんな病気だった」「闘病していたらしい」
「自殺だって」「最近様子が変だった」
「若いのにかわいそう…」

そんな言葉が飛び交って、ひとしきり盛り上がったら全く異なる話を楽しそうにしている。

分かっている。
画面の向こうの人にいちいち思いを馳せていられないこと。
そこまで感情移入するから私がしんどくなるんだということ。

でもどうしても割り切れないのだ。もうずっと。

記事の詳細は読まないようにしている。
でもTVで惜しむからある程度は情報が入ってきてしまう。
現代社会との相性が本当に悪い自覚はある。
でも私は「まだ生きたい」から「死をお恐れる」んだ。

これから冬が来る。
突発的な症状で息を引き取る人も増える時期だ。
実際このくらいの時期に知り合いを数人見送った。
その場でもやはり「前日まで元気だったのに」「でもお酒をよく飲んでいた」「年齢的に高血圧で…」など様々な噂話が飛び交う。
静かに見送れないものかと思うがこうやって故人のことを話すのも弔いになるらしい。
私はきっとずっとそこには加われないのだ。
亡くなるまでの詳しい状況を知りたいと思えない。
もう二度と会えなくなることは悲しい。
私なりにその人を想いたい。
でもここでも多数派にはなれない。なりたいのかと言われたら違うけど。
けれど何か一つでも普通の感覚が欲しかった。


せめて自分の不安を解消するために、しっかり健康診断を受けようと思う。
結局自分のためか。そうか。





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