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日本でリベラルを自称する人たちには、顕著な特徴がある。それは、現実をみつめようとせず、愚かな観念論に固執することだ

2018/2/22
以下は私が今の日本のジャーナリストの中で、本当の本物の記者であると何度か言及して来た阿比留瑠偉氏が今日の産経新聞に掲載していた連載コラムからである。
一昨日、月刊誌正論今月号に掲載されていた若手の経済評論家渡邉哲也氏の論文を日本と世界に紹介した。
その中で気になっていた(違和感を持っていた…同意できない)用語の使い方があったのだが、阿比留氏は、私と全く同様の感覚を持っている事を改めて知ったのである。
高山正之と阿比留瑠偉は産経新聞の市価を高めている記者たちの代表だろう。
阿比留瑠偉の極言御免
見出し以外の文中強調は私。
左派のどこが「リベラル」か
政治記事を書くうえで、ずっと違和感を覚え、どうしてそう表現するのか意味不明なので極力、使わないようにしてきた言葉がある。
それは「リベラル」である。
本来は「自由を重んじること」や「自由主義的なさま」のことのはずだが、政界では明確に違う意味で使用されている。

迷える左翼の新看板 
「リベラル勢力結集の要として頑張りたい」
「リベラル勢力の再結集をはかろう」 
これは、社民党の福島瑞穗元党首が昔から、好んで口にする言い回しである。
だが、果たして福島氏は本当に「リベラル」なのだろうか。
むしろ、端的に言えば「左翼」「左派」というのが本当だろう。 
いくら当人がリベラルを自称しているからといって、左翼のことをリベラルと言い換えるのは、新聞表記上の一種のごまかしではないかと思ってきた。

こうした疑問について、ちょうど徳島文理大の八幡和郎教授が26日に新著『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の“偽リベラル”』を出版するというので聞いてみた。
八幡氏の解説は明快である。 
「左翼であることをかつては胸を張って訴えていた人たちが、冷戦が終結したことで行き場を失い、今は『リベラル』という新しい看板を掲げている」 少し古い話になるが、現在は立憲民主党国対委員長の辻元清美氏が旧社会党出身の村山富市元首相にインタビューした内容をまとめた『そうじゃのう…』という本に、こんな一節がある。
自民党の変化について語る部分である。 
「加藤(紘一)幹事長など自社さ派のメンバーを見れば、それはリベラルじゃね。(中略)やっぱり、中曽根さん(康弘元首相)とかああいう古い体質からは、抜けだしとる」 
この本の中で村山氏は「社会民主主義の流れをくむ、リベラルを結集した柱があってもいい」とも述べているが、社会民主主義と本来の意味のリベラル(自由主義的)は明らかに矛盾している。
これは、やはり左派のことだろう。

矛盾した言葉で偽装 
リベラルとは、左派が自らを偽装する言葉であるようだ。
自民党の山崎拓・元副総裁は「党にリベラルがいなくなった」と嘆いているが、左派がいるほうがおかしかったのではないか。 

大和大の岩田温専任講師の新著『「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義』をひもとくと、さらに辛辣だった。
「日本でリベラルを自称する人たちには、顕著な特徴がある。それは、現実をみつめようとせず、愚かな観念論に固執することだ」  
「日本列島の中で『リベラル』たちは、他の世界のリベラルとは異なる独自の退化を続けた。(中略)特殊な退化を続ける日本の『リベラル』をガラパゴス左翼と呼ぶことにしたい」

若者は見抜いている 
もっとも、若い世代のリベラル観はまた異なるようである。
1月14日付本紙『新聞に喝!』欄で、ジャーナリストの門田隆将氏も紹介していた興味深いデータがある。
読売新聞と早大・の昨年夏の共同調査によると、18~29歳の若者は日本維新の会と自民党のほうがリベラルで、共産党や公明党は保守だと考えているのだという。 
憲法改正に前向きで柔軟な維新や自民がリベラルで、戦後体制を維持しようとする共産や公明が保守という見方は、かなり納得できる。
ただいずれにしても、リベラルという用語は曖昧で難しい。
今後も、できるだけ紙面で使わないよう心がけたい。 
(論説委員兼政治部編集委員)

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