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天皇が反対意見を述べても、陸軍参謀と朝日新聞は「聞く耳」を持っていなかった。独善的で傲慢な松岡と朝日はぴったり呼吸が合っていた。

天皇が反対意見を述べても、陸軍参謀と朝日新聞は「聞く耳」を持っていなかった。独善的で傲慢な松岡と朝日はぴったり呼吸が合っていた。
2019年05月06日
見出し以外の文中強調は私。
昭和天皇は松岡洋右がお嫌いだったが、朝日は「松岡讃歌」を作詞・作曲 
実録・独白録から昭和天皇のお気持ちを推測すると、皇太子時代に留学した英国に特に親近感をお持ちだった。
英米には親近感、これとは対照的に全体主義国家のドイツやソ連には強い警戒心を持たれていた。
日本外交を独善的に進めてきた松岡洋右は、国際連盟脱退・日独伊三国同盟を進めた張本人。
昭和天皇の最も嫌いな人物で、天皇は近衛文麿首相に強く解任を要請していた。
 
2006(平成18)年、日経新聞が報道した「富田メモ」(富田朝彦・元宮内庁長官、故人)について、実録ではメモ報道の事実に触れ、「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝について述べられる」(1988年4月28日記述)と記されているが、中身には触れていない。
実録は、極力、天皇の心中には入ろうとしていない。 
1975(昭和50)年が最後になった昭和天皇の「靖国参拝」。
「参拝の中断」と「A級戦犯合祀」との関連の問題ついては、肯定する見方と否定する見方があるが、ここでは詮索しない。
しかし、日本社会党(現・社民党)など野党各党の反対運動が影響していたことが実録で明らかにされた。
すなわち参拝に不可欠な静謐な環境が保てなくなったことが影響していると思われる。
それと、人物観察眼の鋭い昭和天皇のこと、個別の人格を冷徹に見抜いていたと思われる(46年6月に松岡洋右は獄中で病死)。
「A級戦犯」云々というような、一括りで論ずる問題ではあり得ない。 31(昭和6)年の満州事変後のリットン調査団による「日本非難報告」採択に、松岡は大いに不満だった。
33(昭和8)年日本の全権大使だった松岡は、国際連盟を独断で脱退。
しかし、国際協調を願っていた昭和天皇は、国際連盟脱退に反対だった。 
国際連盟は、第一次大戦中の18(大正7)年に設立された。
米国ウィルソン大統領が、「14ヵ条の平和原則」を発表して平和維持機構の設立を呼び掛け、設立されたものである。
加盟国は42力国で、イギリス・フランス・日本・イタリアが常任理事国だ。
「脱退」とは余りに短兵急。
脱退以外の途も探るべきだった。
日英同盟の「期限終了」と同様、日本にとって悔やまれる出来事だった。
この稿続く。
昭和天皇と朝日新聞の行動は、あまりに対照的だったが、朝日の煽動よろしく、国民は松岡の国際連盟脱退行動に、と題して2017-11-12に発信した章が、今、gooのリアルタイムベスト10に入っている。
以下は前章の続きである。
奈良武次侍従武官長が、「脱退は遺憾でございましたが、国民の世論でありました」と申し上げると、天皇は「世論というも、現今のように軍人が個人の意見を圧迫するようでは、真の世論はわからぬではないか」と反論された。
成人後、あまり好悪を述べられない昭和天皇が珍しく嫌いと述べられていた松岡洋右。
天皇は、松岡に常にその場しのぎの「ふたごころ」を感じとっていたようだ。 
一方朝日は、松岡洋右の決断を高く評価して、国連連盟脱退行動を紙面で絶賛した。
そればかりか33年、松岡を讃える軍歌『連盟よさらば』を作詞・作曲。
国際連盟脱退の「正統性」を訴えた松岡を「国民的英雄」に祭り上げてしまった。

昭和天皇と朝日新聞の行動は、あまりに対照的だったが、朝日の煽動よろしく、国民は松岡の国際連盟脱退行動に熱狂した。
ジュネーブの国際連盟会議場で42力国に抗して演説した松岡洋右に、朝日とともに国民も心酔した。 
朝日が作った軍歌とは、次のとおり(太字は筆者によるもの。この歌の胆)。 
(資料4)『連盟よさらば』作詞一朝日新聞・今日の問題の子 作曲:江口夜詩   
〈一番〉
遂に來たれり現実と 正義の前に眼を閉じて      
彼等が無恥と非礼なる四十二票を投げし時我が代表は席を蹴る
   
〈二番〉      
見ずや 新たに満州の五彩の国旗翻る      
軍閥多年暴圧の涙を拭けば血ぞ沸きて 三千万は甦る
   
〈三番〉      
ああアルプスの峰高く レマンの水は清けれど理想のかげは地に落ちて      
深き理解はくみ難くジュネーブの空春暗し
   
〈四番〉      
さらば別れん連盟よ また逢う日こそ極東の平和のひかり輝かに      
盟主日本の雄々しさを微笑のうちに迎えんか
 
この稿続く。
独善的で傲慢な松岡と朝日はぴったり呼吸が合っていた。
以下は前章の続きである。
1936(昭和11)年、共に国際連盟を脱退して孤立化した日本とドイツが「日独防共協定」(仮想敵国はソ連)を締結した。
そして、イタリアもこの協定に参加、40(昭和15)年に「日独伊三国同盟」が結ばれた。
朝日は、ヒトラーが満州国承認をチラつかせた途端、ヒトラーとの同盟支持に傾いて行った。
天皇が反対意見を述べても、陸軍参謀と朝日新聞は「聞く耳」を持っていなかった。
独善的で傲慢な松岡と朝日はぴったり呼吸が合っていた。

悪いのは42票の国で、日本は悪くないという軍部と朝日。
この稿続く。
後に松岡は、「三国同盟の締結は、一生の不覚だった」と悔やんでいたが、悔やんでも悔やみきれないのは日本国民の方だ
以下は前章の続きである。 
40年7月近衛内閣発足。
松岡は、近衛から「外交については松岡に一任」との約束を取りつけ、大使・公使を大量に異動させ、外務省から「親英米派を一掃」した。
松岡の「暴走」がはじまった。
 
41(昭和16)年3月、松岡はベルリンに行きヒトラーを訪問。
4月にはモスクワに行き、数千万人という「大粛清」を行っているスターリンと「日ソ中立条約」を結ぶという大きな過ちを犯した。

「日独伊三国同盟プラスソ連」の4力国で米国に対抗しようとした「松岡構想」は、2ヵ月後に敢え無く崩壊。
同年6月、ドイツは突如としてソ連に侵攻した。
松岡はベルリンからモスクワへと精力的に活動したが、結局、ヒトラーに振り廻されっ放しだった。
 
昭和天皇が外相の松岡解任を要求したのは、松岡の「引き返しの出来ない」判断ミスを感じておられたからだ。
天皇による解任要求に対して、近衛文麿内閣は松岡一人を罷免できず、同年7月近衛内閣「総辞職」となった。

後に松岡は、「三国同盟の締結は、一生の不覚だった」と悔やんでいたが、悔やんでも悔やみきれないのは日本国民の方だ。
この稿続く。 


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