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#007 貧乏神

 ガスを閉栓して一年半になる。水道料金は月額二三〇〇円の固定制で家賃と一緒に引き落とされるから、現在の単身用アパートで私が個人的に契約しているインフラは電気だけということになる。
 もともと調理台にガス栓はなくコンロはビルトインの電気コンロだったので、契約する必要のあるガスの用途は端からストーブと給湯器の二つに限られていた。夏場などはいずれもほとんど使用せず、請求額がたとえば二五〇〇円などとなれば月額二〇〇〇円の基本料金が占めるその割合に赤貧の身は顫えることもしばしばで、とはいえシャワーばかりはどうにもならないとガス依存の生活に苦々しさを覚えていたところへ、ヴィム・ホフなる人物を知ったのが、まず私の節約道にはひとつの光明となった。
 正確にはNHKBSの番組で特集されていたキキ・ボッシュという女性を介して知ったのだが、興味のある方は各自ネットで調べていただくとして、ともかくかなり端折って言えば、「我々一般人においても水シャワーは健康によい。」というこの最低限の結論に私は励まされたわけである。以降少しずつ水シャワーを試みるようになり、初めはお湯と水を混ぜていたのが徐々に水のみへとシフトしていき、そしてついに翌年、夏場だけでも、とガスを止めることに決めた。
 夏場と言っても北海道は六月中旬から九月中旬までの三か月ほどしかあたたかくなく、ガスを止めた五月中旬には閉栓を早まったかと後悔するほどに寒い日もあったが、しかし経済面/健康面を思えば冷水のみの生活には馴れるよりほかなく、徐々にあたたかくなる季節にも助けられ、夏はやはり予期していた通り容易に乗りきることができた。しかし最高気温が二五℃を切りはじめる秋口からすでに水シャワーは快適ではなく、秋が深まり最高気温が一〇℃を切るようになればさすがに水も冷え再びガスの開栓を考えさせられたが、しかし漠然とほかにも案があるような気がし、ひとまずネット検索で代替案を探すことにした。
 最初に見つけたのはアマゾンにいくつも出品されているポータブルシャワーであったが性能にいまひとつ信頼を置くことができず、結局は風呂場の残り湯を洗濯に再利用するバスポンプを応用する例を見つけ、これに倣うことにした。予算はぜんぶで三〇〇〇円程度だったと思う。この低予算は第二の光明であった。一応書いておけば私の場合、百円ショップの特大ランドリーバスケット(五〇〇円)にお湯を溜め、そこに園芸用のホースとシャワーヘッドをつないだバスポンプを沈めて使用している。シャワーヘッドも百円ショップで購入、園芸用のストッパー付で握りしめた時にだけお湯が出る。(出しっぱなしにすることもできる。)ホースも恐らく百円ショップのものでよいのだが、当時たまたま品切れだったためこれだけはホームセンターで別に購入した。つまりポンプ以外はすべて百円ショップで揃うことになる。
 バスケットの容量はおおよそ二五リットルと見ているが、このうち六から八リットルを沸かした湯で割れば適温になる。電気ポットを併用してもこれだけの湯を火力のそう強くはないコンロで沸かすのには半時間ほどだろうか、ともかくも時間がかかる。のみならず二五リットルという水量は実際に使用してみればわかるが、かなり少ない。そのためまずは全身を軽く濡らしたところですぐに止水し、頭髪を含め全身を泡まみれにしてから一気に洗い流すという手順を踏む必要がある。髪の長い女性などは不利であろうから一概には言えないが、しかし馴れてしまえば少ない水量でも充分で、何より温水のありがたさを身に沁みて感じることができる。事後的に知ったことではあるが、これは非常に大きな利点である。真冬にお湯を浴びられるありがたさは給湯器を断たねば知ることができない。いや、水シャワーが常態となれば秋口に初めて浴びるお湯でさえ、肌に馴染むようなあのやさしくやわらかい感触がほとんど驚きとして感じられる。経済的な事由から不便を強いられたにすぎないが、これまであたり前に感じてきたお湯にさえ感謝の念を、それも心から覚えることができるこの幸福感は、私には思いがけない収穫であった。
 夏場は水道水に、ありがたさを覚える。クーラーの普及していない札幌にあって私のアパートも例外ではなく、のみならず鉄骨造の最上階となれば熱気が異様にこもる。これは最上階に住んだ経験のある方にはわかっていただけるかと思うが、現に真向いのアパートでも夜に室内の明かりが皓々とこぼれるのも構わず窓を開けはなっているのはいずれも最上階の住人だけである。温度計はないが真夏の室温は恐らく三〇度を超えている。というのも外気温がまだ三〇度を割らない夕刻、所用で屋外へ出たところ室内よりもよほど涼しいと感じたことがあったからである。そうなれば自然、室内ではパンツ一丁、体に水をつけて扇風機に気化熱を奪ってもらう生活になるわけだが、その中でふと気づいたのが水道水の冷たさであった。蛇口をひねるだけでこれだけ清潔な冷水が、それもいつでも利用できる日本の水道の優秀さに頭の下がる思いがした。適宜水シャワーを浴びるほか、ひどく暑い日には水風呂に二度、三度と入る日もあったが、体温を奪ってくれるあの冷水には毎度、つくづくありがたいと感じた。これが東南アジアやインドの猛暑日であったら、倒れそうになるほどに暑い日に身体を冷やす手立てさえないのである。
 金がないのは不便ではあるが思わぬ歓びもある。そしてこの感謝という内面の収穫は非常に、非常に得がたく、尊い。身をもって、そう感じている。怪談の方面で著名な三木大雲上人も(私は怪談が好きでたまに動画を観るのだが)貧しい生活を通じてガスや電気といった文明生活の最低限の基盤にさえありがたさを感じるようになったとおっしゃっていた。上人はその当時ご病気にもなられたようで、健康面の感謝と併せこれが疫病神と貧乏神の功徳であるとも説かれていた。なるほどと共感し敬服した。私も健康には常々感謝している。あたり前のことへの感謝は、得がたいものである。
 とはいえ、節制は渋く、難儀である。もし経済面でいくらか余裕が出たなら、私は躊躇わずガスを開栓し、そしてクーラーのある部屋を探すだろう。

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