ノック放置
旅にでるところだった。
歯ブラシや着替えのつまった鞄を持ち上げたとき、インターホンが鳴った。
「どちらさま…」
答えはない。
子供のいたずらだろうか。
受話器をフックにかけると、靴を履いてドアノブに手を掛けた。
そのとき、ドアを直接叩く音がした。こつんこつんと二度。
私は返事をせずに、ドアスコープをのぞいてみた。誰もいない。マンションの通路を歩いて行く足音もしない。南の窓から通用口のあたりをのぞいてみたが、誰も歩く人はいなかった。
勢いよくドアを開けた。もちろん、誰もいない。
それから私は旅に出た。旅先では、ノックのことなどすっかり忘れていた。
気ままな旅であったから、立ちまわる先も帰りの日もさだめず、ただ、あちこちを歩き回って疲れたら宿で眠り、風呂につかり、出されたものを旺盛に食べた。土産は買わず、人々とそのとき限りの話を交わした。
いつ戻ったのか、日付も見なかったし曜日も分からない。ただ覚えているのは、それが良く晴れた午後だったということだけだ。
ドアを開けると、風が吹いてくる。家の中からだ。しかし、窓はきっちり閉まっている。
冷たい水でも飲もうとキッチンに立つ。
食器棚を開くと、また風が吹いた。
棚にあったのは、皿でもコップでもなく靴下だった。色とりどりの靴下がびっしりと同じ方向に踵を向けて横たわっていた。
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