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雲が壊れる

 気づくと私は土の中で体がばらけているのだった。

 どうやら死んでしまったようだった。死んでばらけて葬られたらしく頭蓋骨のうえに子宮がのせられ、胃袋のとなりに右足が、右足の下に心臓が置いてあるという具合。

 自分の再生を願った人がいれば、こんなふうにばらばらにするはずがない。しきたりでは、生きていたときのままに。

 土がはだけて空が見えている。雨が降っているのに、空はあかるい。

 ひと眠りしたがすぐに目を覚ました。いい加減、寝飽きた頭だ。頭蓋骨の下に胃袋や子宮を納めたが、何かが足りない気がする。
 穴から這い上がるとき、よっこいしょと言おうとして声が出なかったので、どうやら声がないらしいと気がついた。
 
 再生したときに困るように声だけ持ち去ったらしく。
 まあいい。
 さきほどまで自分がいた穴に土をかけると、体についた土と葉を払い落とした。そして、木々が並び立つうす暗い道を歩き出した。

 
 二重サッシの窓から、太陽の光が四角く差し込んでいる。最上階の南西を向いた眺めのいいその部屋には、まだ誰も住んでいないのだがそこに女が一人、窓のほうを向いて立っている。部屋を見にきた見学客ではなく、さっき穴から出てきたばかりの声のない女。

 広がる空には、入道雲が出ている。女が部屋から出て行くとの同時に、入道雲も動き出して一度大きく膨れ上がったと思ったら、また少しずつ千切れてばらばらに壊れる。

 入れ違いに、マンション販売会社の北原がエレベーターに乗り込んでくる。

 彼が部屋につくと、予定していた見学者から急な用事ができて行けなくなったと言う電話がかかってきた。まただ。この部屋はずっと売れ残っていて、見学者のキャンセルも絶えない。

「呪われているのかな」と、同僚は言う。

 呪いはともかく笑うのはいやだったから北原はさあ、と首を傾げる。ひと回りして各部屋に問題がないことを確認して部屋を出たとき、非常階段のドアのそばに焦げ茶色のワンピースのような服を着た女が立っているのを見つけた。
 濃い眉毛と力強い顎の線がくっきりとしている。

「             」
 なにか声をかけようとしてとどまった。

  セキュリティがきびしいから、直接部屋を見に来ることはできない。他の部屋を尋ねにきた人が間違えたと思うが、様子がおかしい。
 女は何も答えず、非常階段のドアを開けて消えてしまう。あとを追って階段を覗きこんだが、そこに女の姿はなく、足音も聞こえない。通路の窓から外を覗いたが、遊んでいる子供たちが見えるばかりで、焦げ茶色の服を着た女はエントランスから出てこない。

 空には大きな入道雲が出ている。小さな入道雲なんてあるのか?と北原は思ってひとり笑う。それから、空というのは巨大なスクリーンで、雲とか月とか夕日を何度も再生しているだけなんじゃないかと、今までに五百回くらい考えたことをまた考える。

 ★

 妻だった女が、ガラス張りのカフェから高層マンションを眺めていると、疲れた様子の男が出てくる。

 たぶん不動産のひとで、建物の前で客らしい人と話しているのを見たことがあると思う。ひたすら頷いて、客が消えるとすぐに鞄からペットボトルを取り出して一気飲みしていた。飲み終わったボトルを捨てるともう一本ボトルをとりだしてまた一気に飲む。彼の身体を針で突ついたら、水があふれ出して体ごと蒸発してしまう。

 グラスをのせたトレイを返却口に返しに行くと、ウエイターが口を開いて、丸木舟の櫂が大海原をかきわけていくざあっという波音がした。おそらくは、ありがとございますと言ったのだと推測し、ごちそうさまでしたと言って早足で店を出る。

 妻でなくなった先週から、あらゆる人間の声が何か別の音に聞こえるようになった。花火の音がすると思ったら、外の通りを笑いながら歩く人がいる。テレビをつけると、卵を割り損ねて黄身がつぶれる音。

 
 声がない街は静かで、通り過ぎる人はみんな水のなかにいる。
 信号が変わる。
 髪の毛を頭の上で大きく結い上げて、麻素材の茶色い服を着た女の人がいた向かいに立つ。不思議な服。視線を宙に漂わせてまだ青にならないのに歩き出す。その目の前に、バイクが走ってくる。
「あぶない」
 叫ぶと、その目がこっちを見た。バイクはなんとか迂回して走り去る。女は動じずに、まっすぐこちらを見続ける。そして目玉をつかまえて、どこかに連れ去っていった。心臓の鼓動が早い。それとも、遅くなった。
 目玉は空の中に吸い込まれ、妻だった女は歩道にくずおれていた。

 ★

 なるほど、私は私を見つけた。身体の具合も顔も私に似ている。女は転んでいる。
 ぱちりと目を開けたとき、喉の奥からひっと風が吹いてきた。
「あ、な、た」
 呼びかける。女の目が大きくなり「わ、た、し」と答える。人がやってきた。
 私は女を寝かせると、その場から立ち去る。

 あのマンションの部屋は売れたのだろうか。
 なんなとく、まだ売れていないのではないかと北原は思う。日当たりもいいし、土地柄も悪くなかった。それでも売れない部屋というのはある。
 会社に辞表を出したのは今から二週間前で、とくに引き留められることもなかった。
 あの部屋のことを思い出すのは、非常階段のところにいた女のせいかもしれない。今では、あれがほんとうに生きた女だったかどうかも疑わしい。

 鞄からペットボトルを取り出すと、ぬるくなった水を勢いよく口の中に流しこんだ。仕事をしていたときは、三本は持つようにしていた。電車を待つ間、駅から歩きながら、客を待つ間にと手を伸ばす。
 二ヵ月前に受けた健康診断では何の異常も見つからなかったし、退職しても水の量は変わらないが、今では好きなときに好きなだけ水を探せるようになった。

 また、入道雲が出ている。

 いきなり出てきた旅だった。列車に乗って適当なところで降りて小さな神社に寄ったが、そこにいる間は喉が渇かなかった。
 神社を出てつづら折りの坂道を下っていると、後ろから大きな男が歩いてきて真横を通り過ぎていった。真っ赤なナイロンのジャケットは衣擦れがしそうなのになにも聞こえなかったが、ぼんやりとして聞き落としたのかもしれない。
 赤い背中は大きな銀杏の木に隠れて見えなくなった。
 消えた方角に歩いていくとバス停があった。男はいない。
 時間を見ようとして、左腕に時計を巻いてこなかったことを思い出した。太陽を見上げ電信柱の影の具合を見てなんとなく午後二時くらいか、少なくとも午後四時ではないだろうと思う。
 
 本を鞄からとりだし、一行目を読んだところで雷の鳴る音がした。屋根に穴でも開いてたのか、冷たいものが首筋に落ちてくる。
 雷というの大昔は神か蛇だったと言うが、小蛇のような雨に巻かれ、バス停を飛び出した。軒先を借りられそうな場所を探していると、つるんとした四角い平屋を見つけた。曇りガラスの嵌め込まれた玄関に、美術館と刻まれた木札がかかっている。個人の家を改装したものなのか、建物につづくアーチも階段も何もない。

「ごめんください」
 扉を押して、声をかける。
「はいよ」
 返事はしたが、誰も出てこない。中に入ると小机があって、そこに北原の祖父くらいの年の男が座っていた。もう六月なのに、深緑色の膝掛けをかけている。
「ここは美術館ですか」
「外にそう書いといたけどね」
「どんな絵がありますか」
「どんなって言われても、見ればひと目でどんな絵かわかるよ」
 油絵とか日本画とかいくらでも言いようはあるが、彼のいうことはもっともだった。
「いくらですか」
「百円」
 北原は絵を見るために中に入っていく。

 外から見ていたよりも、中は広い。
 絵が白壁に直接掛けられている。果物や壺などの静物画ばかり。
 素人目にも稚拙で荒っぽかったが、どこかに違和感を覚えた。ふつう静物画というのは、皿の上に林檎やぶどうやワイングラスなんかをまとめて描くものだと思うのだが、この部屋の絵はキャンバスにたったひとつの対象物しか描かれていない。
 齧った林檎がひとつ。薔薇が一本。何も活けられていない壺。開封された手紙。文字は小さい。つなげても意味をなさない羅列。
 扉のないくぐりを抜けて奥の部屋に入った瞬間、「わっ」と声をあげてしまった。

 部屋の奥に、女がひとりいたのだ。
 薄青い色の着物を着て、長い三つ編みを弄びながら立っている。
「すみません。人がいるとは思わなくて」
 言いながら、またしても「あっ」と声が。

 女だと思ったのは掛軸の中の絵だった。ガラス戸の中に大きな掛軸が掛けられていて、そこに青い着物の女が描かれている。
 これまでの絵とは段違いに緻密で美しい絵だ。
 髪の一本一本、着物の色や皺、眉の具合まで、やわらかい。女を思う誰かが、日がな一日女を眺めるためにこの絵を描かせたみたいだ。それだけでは飽き足らずに自分でも筆をとり、女の育てた薔薇や齧った林檎を描いたのだ。返事のなかった手紙の文字は、辻褄を合わせるように呪文めかせて。

 誰かを絵の中に閉じ込める。
 どれだけ眺めようとも逃げることはない。

 それでもいつか絵の具は乾き、この顔も着物もひび割れる。そうなったとき、女を思う分だけ、かれは過ぎずにいられるか。

 北原はふいに、自分に携帯電話を解約させるに至った女のことを思い出した。女とは七年付き合って別れた。
 
 最後に女が何と言ったのか何と言い返したのかは、もう覚えていない。食べれば吐き、眠れず、仕事だけはなんとかこなして機械のように動けるようになったころ、再び女から着信があった。

 消去したはずなのにその数字の羅列を見たとき、北原はすぐに女のものだとわかってしまった。そのまま電源を切った。女ともう二度とつながりたくないと思った瞬間、すべてを絶つためだけに辞表を書いていた。

 仕事を辞めるまでに着信は三十七回あったが一度も反応せず、会社を出たその足で電話を駅のごみ箱に捨て、翌朝始発電車に乗って旅に出たのである。

「そろそろバスが来るよ」と奥から声がした。
「え」
「バスを待つために来たんだろ。ここにくるのはそんなのばかりだからさ」
「はい、あ、いえ」
 
 建物を出ようとしたとき、絵の端にもう一人小さな女がいることに気がついた。
 草むらに立ち、正面を向いて立っている。着物女が大き過ぎて、気づかなかった。茶色の服を着て胸に緑色の玉の首飾りをぶら下げている。その服に見覚えがあった。非常階段のところにいた女が着ていたものだ。どうしてこんなところに?自分を追いかけて来たのか。いや、何を言っているんだ。これは絵だ。

「あのひとつひとつの静物の絵はつながっているんですか」
 受付の男に尋ねた。
「つながってるって?」
「なにか、ひとつの物語のようになっているのかと」
「まさか。ぜんぶ違う作者だから、つながりなんかないな」
 頭を下げながら美術館の外に出ると、雨はすっかり止んでいた。

 ★

「あなた」
 朦朧とすると意識のなかで、誰かの声を聴いた。久しぶりの声だった。誰かに抱きかかえられている。
 妻だった女は目を開けた。自分のまわりに人が集まって心配そうに見てあれこれ話していたが、どれも声の人には見えなかった。かわりに大音響の宗教音楽が聴こえるのみ。
 なんとか、「大丈夫です」と言って立ち去る。

 それから図書館に行き、てきとうに手に取った本を開くと、文字がすべて記号のようで何も頭に入ってこない。声だけでなく文字も駄目になったのか。ただ、昔一度でも読んだことのある本はしっかりと読むことができたので、それらを借りられるだけ借りて、スーパーで大きな肉と洗うだけでよい野菜と果物、煙草を一ダース買って家に帰る。

 肉とセロリを交互にかぶりつき一服しながら本を読んでいると、さまざまな言葉が頭に浮かんできた。昔、学校で習ったり誰かに教わったりテレビで見たりラジオで聞いたり本で読んだりしたものごと。すべて忘れていたことばかり。
 布団に潜り込み、目を閉じても忘れたものが追いかけてきたがそのまま眠った。

 露天風呂に浸かってみたが、湯が熱すぎるのですぐに岩場に上がる。すると今度は尻がごつごつして落着かない。また熱い湯にからだを沈めたが、一分も我慢できずに飛び出した。

 あれからバスに乗って終点まで行き、駅前の観光案内所に訊ねて、適当な宿を探してもらった。山の見える部屋に案内されたが、その山の名がわからない。

 冷蔵庫からミネラルウオーターを出す。大きな窓を開け放つ。暗い空のもとに暗い山の稜線が見える。見ているうちに、ぼんやりしていた山の端がだんだんくっきりと迫ってくる。山は動かないが人は小刻みに動く。吊革にぶら下がっていても、椅子に座っていても右へ左へ揺れる。心はもっと動く。

「入りますよ」
 女の声がして、引き戸が開く音がした。
 化粧の濃い年のころのわからない仲居が、膳を運んでくる。前菜や刺身の小皿が大きな机いっぱいにいちどきに並べられる。
 
 白米を盛った椀を受け取りながら、その横顔をちらりと見た。唇に真っ赤な口紅、目元には濃いアイラインをほどこしているが厚化粧という感じはせず、細い眼を際立たせている。

 ごゆっくり、と言って部屋を下がっていく。料理はよく見るようなものばかりだったが、うまかった。食べ終わって座椅子に背をつけると、見ていたように外から声がかかって、さっきの仲居が盆の上に冷酒とグラスをのせて入ってきた。

「ずいぶんきれいに食べて」
 骨だけになった魚を、仲居は褒めた。
「あの山は登れますか。登山口あたりを散歩するくらいでいいんだけど」
 さっきまで見ていた暗い山を指さして、尋ねた。
「あの山なら簡単ですよ。私などヒールで行きました。すれ違った登山者に怒られましたけどねえ」
 答えながら仲居は手早く膳を片付ける。
「朝、おにぎりを作ってもらえますか」
「いいですよ。具は梅だけです」
「もちろん」
「バスでふもとまで行けば、看板がありますし、おひとりでも行けるでしょう」
「そう」
「お客さん、今日はどこをまわりました?」
「小さな神社と美術館くらい」
「今は祭りの時期でもないですしね」
 料理を出すときは手早かったのに、いまは栓抜きを持て余すようにしてそこにいる。
「祭りはやっぱり夏なんですか」
「秋にもありますよ」
 試しに猪口を空にして、渡す素振りをすると、仲居はすんなり受け取って自分で酌をして飲んだ。空になった猪口を満たさずに、戻す。こちらも自分で酌をしてちろりと舐める。
「お客さん。こんな話、知ってますか」
 仲居は暗い山のほうを見ながら言った。
「怖い話ですか?」
「怖いですかね、べつに怖くもないですけど、怖くないといけないですかね」
「いいですよ、怖くなくても」
「神輿の列には、誰も知らないのがひとり、混じっているんです」
 仲居はそう言うと、両手を膝のうえに重ねて話し始めた。
 
 神輿の列には、かならず誰も知らないものがひとり混じり込むんです。ここの神輿はそりゃあ大きくて、普段力仕事をしているようなものじゃないと支えられません。それを持ち上げて大きな声を挙げながら練り歩くんです。昔は神輿につぶれて死んだのもいるんですよ。そんな必死な列の中にね。いつの間にか、知らない者が紛れ込んでいるというんです。もちろん、そんなものがいればすぐ気づくはずなのに、必死になっているせいか誰も気づかないんですよ。
 
 話し終えると、また自分で酌をして酒を飲んだ。
 北原はいかにもありそうな話だと思って聞いていたが、途中で食い違いに気がついた。

「誰も気づかないのなら、どうしてその人が紛れ込んだってことがわかるんですか」
「祭りが終わって、頭が冷えると思いだすんだそうですよ。自分の隣に見たことのない人間が立っていたようだって。それが一人や二人じゃなくてみんながみんな、自分の隣にいたと主張するんだそうです」
 なんでもない、という顔をして仲居は答える。
「ますます変ですね」
「でしょう」
「何者なんですか」
「さあ、わかりません。ともかく、神輿の列には必ず何かが紛れ込むってことですよ」
 仲居は酒を片づけてしまった。
「明日は六時半に。おにぎりは梅だけです。ツナだのすじこだのはありませんからね」
 翌朝フロントに行くと、昨日の仲居とは違う若い番頭が眠そうな顔で立っていて、紙袋に入ったおにぎりをくれた。
「梅だけですよね」
「まさか。鮭とおかかもありますよ」
 番頭は笑った。
「ありがとう」
「いってらっしゃい」

 仲居の話していたハイキングコースを記した看板は見当らなかった。明るくてひろびろとした道を想像していたのに、大木がみっちり生えてうす暗い。一本道だから迷いようはないが、立て札ひとつない。いつでも引き返すことができると思いながら、北原は引き返さずに歩き続けた。

 二時間ほど歩いて水を一本飲み干してから、紙袋のことを思い出した。鮭、おかか、梅。あまい卵焼きと鰆の西京焼きも添えられている。食べきって、また水を飲むとまた歩き出す。額にも脇にも背中にも汗が流れているのに、暑いのか寒いのかはっきりしない。
 岩場にわき水を見つけて、口をつけてすすって飲んだ。歩き出すと足につる草のようなものが撒きついて、転びそうになった。

 やはり引き返そうかと思っていると、一本道の向こうから女が歩いてくるのが見えた。リュックも何も持たず一人きりで歩いている。一枚布を折りたたんで首と腕のところに穴を開けただけのような簡単な服を着て、胸に玉のような頸飾りをかけている。
 絵の中とマンションにいた女だ。自分は最初からずっと、幻を見ているのかもしれない。マンションで見たもの、絵の中のもの、別れた恋人からの電話も、何もかも。

 幻覚だろうとなんだろうと女はどんどん北原のいる場所に近づいてきて二人は向き合う格好になる。女の顔はこちらを向いていたが、目は虚ろだ。人は一歳なかばまで「私」というものを認識できないというが、女は今、そんな目をしている。

「こんにちは」
 声をかけてみた。返事はない。

「この道でよかったかどうか心配になってきました。あなたも引き返してきたんですか。それとも、山頂まで行きましたか」
 やはり、何も答えない。

「もっとひろくて明るい道を想像してたんですけど鬱蒼としていたんで驚きました」

 女はこちらを見据えたまま、身体を右へ左へ揺らし始める。だんだん薄気味悪くなってきた。いったいこの女はなにをしてるんだろう、早く山を下りて宿に戻ろうと思いながら動けない。
 揺れる女から目を離すことができない。女の揺れはどんどん激しさを増して、やじろべえのようにしなりながらぐるぐるまわりはじめた。
 動きを止めようと手を伸ばすと、女はいきなり直立不動のかたちになって北原の腕の中にくずおれてきた。尻餅をつかないように両足に力をこめて踏ん張る。

 抱きとめた女の顔が近い。濃い眉に力強い顎の線。さっきまでの虚ろな目ではなく、今は北原の目をしっかりと見ている。
 やわらかな繭を包むように、女を抱きしめている。自分の体が半分になったような心もとなさを感じてそれを埋めるように女を抱きしめると、女が力づくで抱きかえす。背中に指が食い込んでくる。何年も、何百年も、もっと長いこと抱き忘れていたように女は北原を抱くのだった。

 力があまりに強いので、体を支えきれなくなって女を胸に乗せたまま倒れる。背には、昨日見た山が張りついている。名前の知らない大木が見え、空がその葉の隙間から除いている。青に白い雲が見える。あれは今日の空なのか、ずっと昔の空なのか。
 山にのみこまれる、と思ったときいつの間にか女は胸のうえから消えて、北原はたった一人、暗い山に寝転がっていた。


         
 山の中に男がいた。
 男ではなく、木なのかもしれないし、土かもしれないし、虫かもしれないが、男に見えた。男に見えるものを見るのは久しぶりだった。ばらばらになって埋められる前に見ていた男たちに比べるとずっと細長い。顔も薄青く頼りない。細い体のなかから、いとしい、いとしい、とうねるような叫びをあげていた。何がいとしいのかわからずに、ただ何かをいとしくなりたいのだと叫びながら、細い腕を伸ばしてきた。私はその肉を絡めとった。細いからだのなかには、水が流れていた。どこまでも届こうとする水だった。私は男を絡めとりながら、男の水を一滴あまさず飲み干してやった。
 

                   
 誰かの声が聞こえた。
 妻だった女は門を乱暴に開けて走りだした。

 その声はあちこちから反響していた。線路の向こうの家と家の隙間から夕日が見える。登り電車が走ってきて夕日を横切るから、光が窓を通って、ばらばらに砕け散る。瞬きをして目を凝らすと、家と家の間に巨大な棒みたいなものが横たわっているのが見えた。棒の表面には青や薄紫や銀色の鱗がいくつも張りついて光っている。棒じゃなくて、蛇だ。でっかい蛇。あんな大きなものが、住宅地の隙間を通り抜けられるはずがない。あれは、蛇じゃなく音なんだ。今まで聞き落としてきた、たくさんの音の化生なんだ。ずっと遠くから、ずっと昔からやってきた音。
 音は鉄塔に巻きついて、線路を渡って、列車に分断されて、そしてまたひとつになってやってくる。それからゆっくりこっちを向いて、その赤く輝く目を見せるんだ。
 妻だった女は、走って音から逃げだす。
 

 北原は、ハイキングに来ていた家族連れに揺さぶられて目を覚ました。そこはさっきまでいたような鬱蒼とした山ではなく、木漏れ日の降り注ぐ明るい道だった。まわりにはリュックサックを背負った人が笑いながら歩いているのだった。

 山を下り旅館に戻ると精算をすませて歩き出す。昨日の美術館は閉まっている。バス停まで歩いていると、神輿の列がやってきた。君も一緒にどうだね、と誘われた。静かな列だ。北原は神輿を担いだ。かつぎながらふと、あのマンションの部屋は永遠に売れないだろうな、と脈絡のない考えが頭に浮かんだ。

 ★
 
 音から逃げて、妻だった女はうらうらと歩き続けた。
 気がつくと、最上階が売れ残っているマンションの前に来ていた。見上げたベランダに誰かが立っている。いつか見た、茶色い服の女が立って空を見ている。あの女が自分の居場所なのだろうか。わからない。女が何かを抱きしめるような仕草をすると、何かに抱きしめられるのを感じた。だいだい色の石畳を踏んで、妻だった女はマンションの中に入って行った。


 まだ誰のものでもないマンション最上階の部屋。

 対面型キッチンのひんやりとしたシンク。ダイニングテーブルに活けられた白い花。

 リビングの窓には四角い空が見える。空には入道雲が出ている。

(了)

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