見出し画像

私と気学との出会い

なぜ、大学を卒業したての若造(当時の私)が古代中国思想である
“風水≒気学”を学ぶことになったのか? 
それは今から半世紀ほど前になります。
そしてそれは父の遺言とも言える厳命に近いものでした。

これからお話し申し上げることは、私的なものではありますが、すべて真実に基づくお話しです。

それは、50年近くも気学を実生活に応用してきた私の実体験をお話しすることが、気学の本質を理解いただくのに最適と思うからです。
では、始めさせていただきます。

まずは父の若き頃(第二次大戦の終戦間際)に経験したお話しからです。

第二次大戦中は三菱重工のキャタピラー(戦車両)部門の技師でしたが、1945年(昭和20年)の終戦直前に陸軍市ヶ谷駐屯地に召集され、戦地に派遣される前の準備をしていたそうです。
その時に現地に終結した兵士の人数は約3千名ほどだったそうですが、その一人一人に派遣される地区(中国戦線:華北、華中、華南、南方地域:フィリピン、マレー半島、シンガポール、インドネシア、太平洋地域:ガダルカナル島、グアム、サイパン、硫黄島、沖縄など)が言い渡されたそうです。

そして3千名のうち5名だけが残留班となり、
その一人が父でした。

派遣地の告知を受けた兵士たち3千名全員が、その日のうちに戦地へと向うために移動することとなり、かれらの軍靴の足音が、夜半から真夜中にかけて続いていたことをいつまでも覚えていたそうです。

翌朝父を含めた残留班5名が目覚めた時、周囲から聞こえる音はいっさい無く、今までは定時にあるはずの起床ラッパが無いことに奇妙な警戒感を覚えたそうです。

兵舎から出た残留班5名は、無人となった広大な市谷駐屯地にまず驚き、一夜にして3千名が一挙に移動できたこと、結果として残ったのは自分たち5名だけ。その事実をしばらくは実感できなかったとのことです。しばらくして我に返った5名がすぐさま向かったのは、食糧倉庫だったそうです。

終戦間際の東京は、極端な食糧不足の状況が続き、兵士たちでさえも十分な糧を採れない状況でしたが、かれら5名が食糧倉庫で見たものは、山と積まれた食品缶詰、米、乾パン、味噌、調味料等の数々。手当たり次第にそれらを「むさぼり食った」と父は話していました。

当時の日本国民全員がひもじい思いをしている時に、自分たちだけが有り余るほどの食料をむさぼり食っていた”背徳感”よりも、人の本能としての”空腹感”が優先されたのでしょう。

ひと心地着いた後に、彼らが向かったのは、
衣料資材倉庫

そこは、下着から上着までが満載された木箱や行李(竹材で組み合わされた収納箱)が山積みで、父たちは毎日のように下着を真新しいものに着替えていたそうです。

しかし、そんな日々はそう長くは続かず、陸軍総本部から管理官が赴任して倉庫在庫の物品を統制をし、それらの物資すべては管理官たちが運び出していったそうです。
後から父は、「おそらくそれらの物資は闇で販売されたのだろう」と言っていました。

そして、

数週間後に8月15日となり、昭和天皇による終戦宣言が放送され、

日本が全面降伏し太平洋戦争の終結が告げられました。

ここまでは父からの話をまとめた前段階でしたが、私は後日、父の体験を気学的に考察しました。そこで、とても興味深い事実が明らかになりました。その詳細は、気学的見地から説明を申し上げたいと考えておりますので、少しお待ちください。

父が、召集令状で集められた3,000人の兵士たちの中から残留班5人に選ばれ、そして父の運命は、出兵を待たずに突然に終戦を迎えることになったこと。
それには、

なぜ、そして何が、父をふくめた5名の運命を、他者との運命を分けたのでしょうか?


この後、父は戦後の混乱期においても鋭い先見性を持ち、進んで未来を切り拓いていきました。持前の”明るい性格”と”粘り強く生き抜く力”は、戦後の道を的確に歩むための貴重な資産となっていったのです。

私は幼少のころに、「彼の運命がどのように彼の人生を導いたのか」を興味津々で父の物語を「もっともっと聞かせて」とせがんでいました。

父の特異な星の巡りと自身の特性が相まって、

どのように未来を切り開いていったのか、そして次に何が待っていたのか

を、次号でお伝えできればと思います。

お楽しみに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?