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忘れられないピアノ教室の匂い




実家の部屋の片隅には大きなピアノがある。

私が幼稚園の頃から中学校1年生の夏までほとんど毎日欠かさず弾いていたピアノだ。
学校から帰ると毎日鍵盤と向き合い、週1回のピアノ教室に通う生活。

日々上達していくのが楽しくて、何よりピアノの蓋を開けた瞬間のあの鼻腔をくすぐるような独特の匂いが僕は大好きだった。

ピアノの練習をサボって親に叱られた経験がないほど、ピアノに打ち込んでいた。

しかし、小学校高学年に上がり、もう1つ、どうしてもやりたいことが見つかった。

「サッカーを習いに行きたい」
自分から親に習い事をしたいと言ったのはこの時が最初で最後だった。

「ピアノの練習はどうするの ? 」
「今まで通り毎日する。教室にも通う」
それを聞いて安心した母は、サッカーを習うことを許してくれた。

しかし、一度サッカーを習い始めるとサッカーのことで頭がいっぱいになり、毎日欠かさず練習していたピアノも2日に1回、3日に1回となり、ピアノへの興味は日に日に薄れてしまっていた。

サッカーへの抑えきれない気持ちと、親やピアノの先生への申し訳ない気持ちが一緒くたになって、僕はどうしていいか分からなくなった。

中途半端な気持ちで何かに取り組んだり途中で投げ出したりすることに人一倍厳しいピアノの先生は、毎週、練習もせずに来る私に対して厳しく叱った。

なぜ急に練習をしなくなったのか、僕の気持ちの中の葛藤を知らなかった先生の態度が厳しくなるのは当然だった。

これ以上自分の気持ちに嘘はつけないと思った僕は、中学校1年生の夏を迎えた時、授業の帰り際、意を決して先生に言った。

「先生、もうピアノをやめたいんです」

一瞬驚いた先生がその後すぐに見せた表情は包み込むような笑顔だった。体中から一気に力が抜けた私はその場で泣き崩れてしまった。

先生は後ろから僕を抱きしめ、「がんばるんだよ」と言って上着のポケットに1枚の紙を入れた。

振り返ったらまた先生と離れたくなくなってしまう思い、そのまま玄関のドアを開け先生に向かって「お世話になりました」と顔を見ずに頭を下げ、振り向くことなく外へ出た。

ポケットに入っている1枚の紙を広げると、そこにはこう書いてあった。

「あなたの気持ちに気づいてあげられなくてごめんね。今日まで本当によくがんばってくれました。今日までありがとう」

何度もそのメッセージを読んでは泣き、その場に立ち尽くしてしまった。
ようやく気持ちが落ち着いた頃には夏の夜空が上空を覆っていた。

静かに家の扉を開ける。
「ちゃんと先生に伝えられた ? 」
うん、といった僕に母が無言で笑顔で頷いた。

あの日以来、先生からもらった手紙は今でも自分だけの思い出として自宅の勉強机の片隅に眠らせている。

大人になった今でも、年に数回、実家に帰る時には必ずこの懐かしいピアノの椅子に座る。

久しぶりにピアノの蓋を開けてみる。
黄ばんだ鍵盤から香る匂いは、まるでそこだけタイムスリップしたかのようにあの日の記憶を思い出させる。

僕は、一通り思い出に浸った後、静かにその蓋を閉じ、その上に突っ伏すように遠い夢の中へ落ちていくのだった。




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