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「世界は贈与でできている」読書感想

「贈与」とは何か?その原理について解き明かしてくれたこの本に出会った時、私の中で変化したことや腑に落ちたことについてお話したいと思います。目に見えるものが全てではない。
それを理解できた時私の生き方が変化した。

はじめに
「世界は贈与でできている(以下セカゾウ)」との出会いは、尊敬している方、合理主義のその方が「目に見えないもの(ご縁や、良いことは巡り巡って返ってくる、徳を積むこと)を大事にしている」と仰っていいて、本書をオススメしていたのがきっかけ。購入直後は1,2ページ読んだのだが、哲学的で倫理学の難しい話だな…と、ピンとこなかった。

それから約半年後、私にとって天地がひっくり返る出来事が起き、セカゾウを手に取り一気に読み切った。当時の事に関する記事はコチラ(https://note.com/happy_whale28/n/na32798ff4b38
率直な感想は、自分が「なんとなく」信じていた ”社会の常識” への考え方・モノの見方を整理する事ができて「腑に落ちた」。その変化は何だったのか?

天地がひっくり返った
生まれた瞬間から親や家族がいて、無条件に信頼する人間と生活していく。
社会に出てそんな「居場所」を見つけるのはなかなか難しい。私は多数の会社で働きルールや雰囲気の違いがあると知り、ついに自分に合った働く環境・働き方・人間関係・働く意義の総合点が満足点以上の場所を見つけ、モチベーション維持しつつ長期間働いていた。幸福に感謝し頑張っている自分自身にも満たされていた。
そんなある日、天地がひっくり返りその「居場所」が失われ、自分がこれまでの人生で作り込んでいた働き方や生き方のルールを疑い始めた。
人当たりがよくすぐに人を信じ、他人に優しすぎる自分を後悔した。自分以外他人の世の中で「信頼関係」というものは非常に脆く、毎日顔を合わせていてもある日初めて見る顔がある。他人なんて腹で何を考えているか本当に分からない。
「居場所」「他者との関係」「日常は簡単にひっくり返る」そんなことをグルグル考えているときに「世界は贈与でできている」を思い出した。

日常は丘の上のボール
セカゾウの全章に激しく賛同できるため大量の付箋が私の本にはついているのだが、とりわけ心に刺さった3つの章を紹介したい。

ひとつ目は、第8章「アンサングヒーローが支える日常」で解説される
”日常は「丘の上に置かれた不安定なボール」でアンサングヒーロー(褒められることのない陰の功労者)によって支えられている”というお話し。
これは皆(特に私たち日本人)があまりにも平和な日常が通常であると思いこんでいるが、そうではなくこの平和な日常は見えない人たちの多大な努力でなんとか保たれている。まさに指で付けば丘から転げ落ちるボールの様に不安定なものなのだ、と。
私も安全安心な社会が通常だと疑わず生きてきた一人だった。

自分が積み上げてきたものは誰にも壊せないし自分でコントロールするものだと思っていたが、そんなものは簡単に崩れること経験をした。
自分の目に見えている範囲でしか世界を知らないのだから「予期しないこと」を予期できるわけがない。私達の日常は目に見えている以上に複雑な要素が働いて正常が保たれている。文明が発展し人類は何でもコントロールできると錯覚してしまいがちだ。でもそれならなぜ災害は起こるのか?戦争はなくならないのか?コロナが発生し多くの人が亡くなったのだろう?
そして、それでも世界が回っているのは、目に見えない予期しないことも想像するアンサングヒーロー達のお陰なのだと。

それでやっと気付いた。
「目に見えるものが全てではない」のであれば、自分の直感や偶然などという非合理なことこそ「信じる」事ができると。合理的であるがゆえに、目に見える数字や言葉を額面通りに受け取り、論理的なものしか耳に入らず、自分で良し悪しを判断できなくなっていたのだと。
更に言うと、私は来るものをそのまま受入れ、抗うことをしなかった。社会や世間は正しく自分は流れに任せ頑張っていれば「幸せ」に向かえると信じてやまないお花畑野郎だったと。

それならば私は、不安定な日常の中で「能動的に動き、自分の直感や偶然(ご縁)を信じ抗いながら生きたい。」と。やっと自分の人生をジブンゴトで捉えることができた瞬間だった。


他者との分かり合えなさ

ふたつ目は、第5章「僕らは言語ゲームを生きている」に出てくる
”他者と共に言語ゲームを作っていく”というフレーズ。
これは人は皆「オリジナル辞書」を使って他者と話していて 、それは一人一人が異なる経験をして創り上げてきた言葉の辞書のこと。 例えば、砂漠に暮らす人の「暑い」と日本に暮らす人の「暑い」の温度が同じであるはずがない。エリザベス女王が「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったのも同じこと。経験してきたことの上にその人のオリジナルの辞書が構成されていく。
同じ日本人だろうが誰一人として”全く同じ環境”を過ごしてきた人などいないのだから、必ず言語辞書の言葉の意味や使い方が異なる。

時間に追われて生きている私達は短い時間でコミュニケーションを取ろうとして「分かり合えない」ループにハマる。
唯一の解決策は、時間をかけて相手の言語辞書をたくさんめくり全体を観察してお互いに学んでいくこと。相手の辞書の癖を見つけたり語彙をシェアしていけるようになると楽しくなってくる。
みんな違うのは当たり前。そんな相手の言語辞書のページを根気強くめくり続け、学び合うことがコミュニケーションであり、その先に信頼関係がある。それを楽しむのが会話の本質だと私は思う

これまで自分がどれだけ「定型文話」をしていたのかを痛感した。先入観や表面的な会話だけで見逃してきたことが山ほどあった。「事なかれ主義」「主張せず受け流す主義」過ぎて、自分の意見も相手の真意も理解しようとせずやり過ごしてきたから「つまらない」と感じたり、「関係性の行き止まり」に頻繫にぶち当たっていたことに気付いた。
会話する目的について深く考えたことなんてない。「相手と楽しい時間を過ごす為」「相手に好かれるため」「有意義な時間にする為」「情報収集の為」「嫌味を言うため」思いいたのはこんなとこ。 忖度や駆け引きの中でしか会話できないとこういう思考回路になる。

「それが大人だ、社会だ」と流されていたし流していたから、不満を感じても ”考えたり抗わなかった” んだと気付けた。だからこそ、私は「ちゃんと相手を理解するために会話したい」と思う。人と向き合うのはしんどい、だから流してしまうし、嫌われたりケンカしないよう適当に合わせる。だから希薄な人間関係しか作れない。
TPOは確かにあるが、でもケンカする位話し合えることは「いいこと」だと思う。気を使いあったり腹の探り合いをするより、よっぽど向き合えているのだと。
「良い人」であろうとし過ぎていたのだ。それがすごく馬鹿馬鹿しく思えた。

もちろんケンカなんてしなくていい。
まず、異なる辞書を皆が持っていることを認識する。そして言語ゲームを理解するには時間がかかることを知っておく。そうすれば余裕をもって自分と相手の「違い」を楽しめるコミュニケーターになれるのではないだろうか。「みんな違う」こと前提に生きてみるともっと楽しく生活できるようになる。
元々社会なんて多様性の集まりなのに、皆と同じじゃないとだめだという日本教育が色濃く残っている私達や上の世代は、早急に認識を変えていきたい。


贈与の宛先
最後は、第9章「贈与のメッセンジャー」で紹介される ”ルシウスには「宛先」があった。だから見つけた贈与を彼がメッセンジャーとなって宛先へ伝えようとした。”というフレーズ。
自然や創作物からの贈与を受け取ると誰かにシェアしたくなる。例えば、絶景を見たとき、最高の歌を聞いたとき、美味しいものを食べたとき、誰かにシェアしたくなだろう。

ルシウスは、テルマエ・ロマエの主人公のこと。彼は現世に召喚され見聞きした素晴らし制度やシステムを古代ローマに持ち帰ろうと孤軍奮闘する。本来受け取るはずもなかったものを手にしてしまい(これを「誤配」と筆者は表現している)それをシェアせずにはいられないという使命感と生命力が彼を突き動かした。お金を払ってその対価として正当にモノを受け取るなら何の使命感もないが、こちらが何もしていないのに偶然身に余るものを受け取ってしまった時、何もせずにいられるだろうか?
誤配で自分が受け取った贈与の「差出人」に今の自分では何も返せないのなら、他の人に自分ができることを最大限してあげたい、しなくては!と使命感が湧くのではないだろうか?
ルシウスが受け取った贈与を返す「宛先」は古代ローマであり皇帝だった。宛先があったからこそ使命感と生命力全開でルシウスは奮闘したのだろう。

失った「居場所」の話に戻ると、私は四六時中働いていた。だが毎日満たされていた。
それは賃金でも人間関係でもなく、有り余るほど受け取ってしまった「贈与」を可能な限り返そうという使命感とやりがいで活き活きしていたからだ。
働く場所であったと同時に暮らす場所でもあったその場所には、丁寧に守られてきた豊かな自然と町並みと暮らし、文化と歴史を引き継いできたコミュニティがあった。
そんな環境の中で長年働き自分の居場所ができていく事に感謝していたし、知れば知るほど先人達の残した貴重な地域で、それを継承していく立場にいる自分たちが稀でもったいないほどのものを受け取っていることに背中を押される毎日だった。

とはいえ、それに気づいたのは居場所を失って本書を読み終わったあと。
失った理由は人的要因だった。私はどうしてもその場所から受け取った贈与を汚したくなくて今思うと不本意な決断をした。そのことをずっと引きずっていた。
でも、少し楽になったのは「返せない贈与の差出人」が人ではなく、町や先人達が紡いできた「場所」そのものだったんだと明確に切り分けられたこと。
そして、贈与を受けたと感じれるのは誰にでもあることじゃなく、受け取れたと気付けた自分は本当に幸せでありがたい事だったと実感できた。みなぎっていた使命感と生命力の理由が解明された。


まとめ
本書を読んで私が得た変化は「見えないものほど大事」だと理解したこと。
どう感じどう解釈し想像して行動するか。能動的に社会に向き合っていかなければ「当然訪れるであろう今日と同じ平穏な明日」はないのだから。少しづつ世の中が変化し震災も犯罪も事故もそうそう珍しいものではなくなってきたと思う。発生頻度が上がったなら、いつ自分が犠牲者になるとも分からない。
私は「日常が簡単にひっくり返る」ことを経験したからこそ本書に興味を持ち納得し理解ができた。だが、目に見えない贈与は世界に溢れている。子供のころから当然の様に受けてきた教育も、世界中の情報がすぐに知れるインターネットも、どこへでも行けるインフラも、現代に生まれた私達だからこそ享受できるものであり、ここまで発展させてきたアンサングヒーロー達が昔も今も存在しているのだ。
受け取った私たちに何ができるのだろう?
せめて私は、その存在をより理解するため歴史を学び、今自分がすでに贈与されていることを忘れないでいたい。不安定なボールが転げ落ちないよう、なにかできることをしたい。
考えや経験はその人にしかない資産であり価値がある。社会で ”賢い” とされる常識やマナーを鵜の意味にしてはいけない。そんなものより、自分の内側から出てくるものや、相手とのやり取りの中で感じるもの、環境の中で得れる特別な使命感の方がよっぽど価値があり自分の資産となっていく。
目の前の流れるプールに入ってしまえば、皆と同じ様スピードに乗れて何も考えず進める。私は、自分で考え、流れに抗い、行きたい場所へ向かう方が心豊かに軽やかに大事なものを見失わず生きれると確信させられた。

読書感想を通して、私なりに「見えないものを言語化」したつもりだ。
これがとても大事だと思う。
最後まで読んでくれた皆さま、ありがとうございます。
もしあなたもセカゾウを読まれたら、感想を聞かせてください。

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