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運命を考える

2022年03月23日付の中村天風一日一話では以下のようなお話が紹介されていました。

病があろうが、運命が悪くなろうが、それを感謝と喜びにふりかえることです。そもそも病とか不運とかというものの原因を考えてください。何にも自分に落ち度がなくして、病や不運がくるはずないのであります。つまり、原因あっての結果。ですから、おまえの生き方に誤りがあるぞ、と自覚を促すために病なり不運なりが与えられたとしたら、これは大きな恵みですわ。
それを考えたら、恨みどころか感謝にふりかえ、喜びで誤りを是正する方へと自分の心を積極的にふり向けることが一番必要でしょう。
(中村天風一日一話「感謝へのふりかえ」)

この天風さんの一文の中で皆さんはどの点に着目しましたか?私は、「原因と結果の法則」、「運命」、「感謝」という3つのファクターに着目しました。「原因と結果の法則」についてはジェームズ・アレン著「原因と結果の法則」(1903)を各々読んでいただくとして、先ずは「運命」について少し考えてみたいと思います。

安岡正篤先生は「運命」について以下のように述べています。

実は自分を知り自力を尽くすほど難しいことはない。自分がどういう素質能力を天から与えられておるか、それを称して「命」と言う。それを知るのが命を知る、知命である。知ってそれを完全に発揮してゆく、すなわ即ち自分を尽くすのが立命である。命を知らねば君子でないという『論語』の最後に書いてあることは、いかにも厳しい正しい言葉だ。命を立て得ずとも、せめて命を知らねば立派な人間ではない。命とは先天的に賦与(ふよ)されておる性質能力であるから「天命」と謂(い)い、またそれは後天的修養によっていかようにも変化せしめられるものという意味において「運命」とも言う。天命は動きのとれないものではなく、修養次第、徳の修めかた如何(いかん)で、どうなるか分からないものである。決して浅薄な宿命観などに支配されて、自分から限るべきものではない。
(安岡正篤一日一言「知命・立命・天命」より)

その上で、

命は先天的に賦与(ふよ)された性質能力ですから「天命」と謂(い)い、またそれは後天的修養によって変化せしめられるもの、動くものという意味に於(おい」て「運命」とも申します。運は「めぐる」「うごく」という文字であります。然(しか)るに人はこの見易いことを見誤って、命を不運命、宿命、即ち動きの、とれない、どうにもならない定めのように思いこんで大道易者などにそれを説明してもらおうとする。命は天命であると共にその意味では、「我より作(な)す」ものであり、自分から造るものであります。宇宙は時々刻々の新しい造化、創造、変化ですから、常にいわゆる「義理再生の身」とならねばなりません。これを知命、立命と謂います。
(安岡正篤一日一言「運はめぐる」より)
人間が浅はかで無力であると、いわゆる「宿命」になる。人間が本当に磨かれてくると「運命」になる。即ち、自分で自分の「命(めい)」を創造することができるようになる。それを「命は吾より作(な)す」という。
(安岡正篤一日一言「命は吾より作す」より)

つまりは、人の「運命」というものは、先天的な要素(宿命)と後天的な要素(立命)によって決まります。織物でいうところの縦糸と横糸の関係性になります。縦糸は常に決まったものであったとしても、横糸を自らの努力や工夫で変えることにより、様々な柄の織物にすることが可能です。世間一般的に「運命」とは、生まれ持って決まってしまっているものという意味で使用されることがありますがそれは宿命、即ち生まれ持って宿している命になります。運命とは、命を運ぶこと、即ち自分自身でいかようにもすることができる命のことです。

加えて、安岡先生は以下のように述べています。

宿命に任せたらそれこそ惨憺(さんたん)たるものである。ところが、それに手を加えると、まったく別な運命を打開することができる。それは、放っておけばどんな被害を生ずるかもしれない水を、うまく治山治水をやりさえすれば、逆にどんなに作物を潤し、あるいは観光の人々の目を慰め、いろいろの利益のあるものにすることができるものか、それと同じである。
(安岡正篤一日一言「運命と宿命」)より

次に、「感謝」について。仮に、あなたが病なり不運なりと遭遇してしまった際に、それが天から与えられたものであり、これは大きな恵みだと感謝しようとしても、中々出来ることではないと思います。自分の心を積極的に振り向けるという行動は、一朝一夕で為せるものではなく、日々の小さな心の習慣の積み重ねが為せるものであると私は考えます。

無理に感謝をしようとすれば、乾いた心から無理やり感謝を絞り出すようなものであり、更に心が乾ききってしまいます。コップの中にある水をイメージすると分かりやすいでしょう。水が大きく減っている状態から、更に水を外に出してしまうと、コップが空になってしまいます。しかし、コップに水を注ぎ続けたならば、やがては水が自然に外へ溢れ出てきます。この溢れ出た水が感謝と同じです。この感謝には無理がありません。受け取る方も無理を感じませんので心地よく受け取ることができる感謝になります。

よく「〜してもらう」ではなく「〜してあげる」が大事であると言われますが、自分の心が満たされていない人が無理して「〜してあげる」をすると、「〜してあげたのに…。」と逆に見返りを求めてしまうことになります。受け取る側にしてみれば、見返り目当ての「~してもらう」は嬉しくありません。
自分の心が満たされている人は「〜してあげたのに…。」が無くても問題ありません。見返りを求めない「〜してあげる」が出来ます。

先ずは、無理に感謝をしようとせずに、病なり不運なりで失われてしまった自分の心を満たすことが必要ということです。その上で、自分の心が満たされた際には、無理のない感謝をしていくことが必要であると私は考えます。


最後に、本日の魂リクはこちら^ ^


※こちらは2022年3月23日(水)のnakayanさんのtwitterでの連続ツイートを読みやすいように補足・修正を加え再編集したものです。

中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp


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