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パラレル




 ふと気になったことを書き残しておきます。
 今(執筆当時、恐らく去年の夏あたり)、2000年生まれである私は、絶賛就職活動中です。同学年では、もう既に就職先を決めて遊びに耽っている人もおられますが、私の場合はまだそこに至れず、持続的にジリジリと心を蝕む「就職」のプレッシャーとなんとか共存をはかっているところです。
 さて、そのような所謂、進路を決めなければならない時期に差し掛かると、われわれは、自分を見つめ直すということを大抵行うものです。それは例えば、受験期が迫れば自分の興味のある分野を炙り出すチェックシートとしてであり、就活に際しては「自己分析」という言葉をまとって現れます。
 私も、その両方を経験しました。ただ、一つ疑問符を打たなければいけないこととして思うのが、そのような反省が画一的に行われているということです。就活をする、ならば自己分析をしなさい。自己分析をするなら、このシートを参照しなさい、この書籍にあることを振り返りなさい、家族や友人に聞き他己をも知りなさいと。たしかに、このようなマニュアルは必要です。それは初動のためであり、比較的安全に目標(あるとして)に辿り着くための指標となります。ただ、私たちが辿ってきた人生、その蓄積としての経験や膨大な知識は、一様ではありません。であれば、一様ではないものを、画一的な仕方で、ある意味矯正するように反省の実行を促すことで、どれほどの強度の結果が得られるのでしょうか。そのような分析に依拠する自己像は、暫定的かつ脆いものです。一貫性や成長の過程などは、後々からのストーリーテリングにすぎません。つまりは、分析とは言っても、基本的には主観を基準に分析するのであり、第二に他己(この言葉自体、疑問ですが)を知ろうと迫ったとしても、その発言の真意については問うことができず、そもそもその背後には「人選」という自分好みの親しい人という偏りがどうしても生まれます(そう言った意味で、家族からの意見は貴重ではありますが、例えば就活における自己分析を通して知りたいのは、働き手としての自己像であって、家庭内でリラックスした自己像、曝け出した無防備な自分ではない)。
 ここで私は、自己分析やチェックシートが導く結果を完全に切り捨てたいわけでも、無視して取り組まなくてもなんら問題がない、と言いたいわけでもありません。強調したいのは、このような反省方法は、あくまでも手段の一つであって、効果が出ないことも、また、出た結果が目的に適わないことも十分にあると知った上で、実践する必要があるということです。つまり、このような反省の方法を信奉し、絶対的な指標とすべきではない、と考えているわけです。

 そうなると、「自己」を知るというのは、到達不可能な地点なのでしょうか。この疑問に関しては、自己分析と総合について考えた日記におおよそのことがあるので書きません(なんだそれ、知らないぞ)。今回の主眼は、では何が、相対的に客観的な自分を見るための手立てとして有効なのか、という空想めいた新たな戦略についてです。
 この戦略に求められるものは、より強固で確実な自己を確立できること、です。そのためには、まなざす主体としての自分と外からの客観的な視線が同位置にあるというパラドキシカルな状況を解消できる場面を想定しなければなりません。自分を見つめる自分、この四人称ともいうべき矛盾を、最も純粋な形で解消できる方法は、パラレルな自分を見る、ということに限られるでしょう。
 今いるこの世界とは他に、パラレルワールドがあり、そこにはそれぞれに自分が存在し、またそれぞれの生き方を成している。なかには、若くして亡くなった自分も居るかもしれませんし、大金持ちになってうはうはしている自分だっているかもしれません。このような分岐の可能性を考えると、有限の個体から無限の道筋をシュミレートするようでまた困難含みではありますが、ひとまず、SFではあってもサイエンスの練度に関しては目をつぶってください。
 まず私は就活にぶち当たり、パラレルワールドの自分を見てみるわけです。つまり、ある程度まで自分と全く同じ生き方をした人間を見るということであり、その行動原理を客観視することに等しいのです。過去の自分の形跡を振り返るのも良いですが、パラレルな自分は将来についてもより強力な示唆を与えてくれます。
 ある自分は、同じように就活をしているが、その様相は少し違うかもしれないし、またある、そして少し先の自分は、しかじかの会社に勤めている……。
 このようにして、まなざす自己を保ったまま、確固たる別の自己を見る。それはある種の分身のシュミレーションでありながら、自分に対する参照を促す現実的なシュミレートなのだと思います。
 ただ、このようなパラレルワールドの解釈は、どう見てもご都合主義であって、妄言の類いであること理解に易しいと思います。
 そこで、この仕方に近いものでありつつ、現実においても(ぎりぎり)実践可能な自己分析を考えました。

 そこで思いついたものが、自分と似た境遇、価値観、思考法を持つ人の生き方を先例・類例として参照する、という方法です。上述では、私たちの人生は一様ではないとしましたが、より詳しく述べるならば、「一様ではないが類似がある」と言えると思っています。生年月日、出身地、学力、金銭的余裕、支持政党、強みと弱み、好物、推しメン……など、これらの項目を割り振ると「だいたい」同じという重なりが生じてきます。その重なりの多さと、項目ごとの比重(例えば、生年月日や出身地よりも家庭の金銭的境遇や性格・性質面の重なりを重視する、など)を比較・考慮していき、割合として高く一致が見られた人を、相互の類例として設定します。その人物を、ここでの自己分析の「仮自己」として分析の対象にし、そこで得た何らかの気づきをもとに、自己像を決定していきます。
 例えば、私の類例を日本ではなく、アメリカに発見したとします。その人は私と、境遇や集団内での立ち位置、交友関係の広さ、趣味嗜好、学んでいる学問など、その他いくつかの点で重なりが見られたために、生まれた地を異にしているとしても(またこれは同時に、馴染みの文化が違うことも示している)私の類例となっています。また或る人は、境遇や生きた時代が全く異なるものの、金銭的事情と性格・思考パターンが100%と言える水準で重なっているために、私の先例となります。このような意味では、類例は共感の提示となり、先例は道標として機能することになります。勿論、生まれた時代や育ってきた環境は、本人の精神面以外にも選択肢そのものとして現れるため、史料としてある種の完結を迎えているがゆえに多くの気づきをもたらすであろう先例にも、今の自分への置き換えが類例よりも増して必要になってくるでしょう。したがって類例と先例のどちらか一方だけではない相補的な参照が肝になってきます。
 このような参照可能性は、現在の自分に生きづらさを感じている人ほど救われるものだと思います。ある考えを抱いているがそれが成就できる見込みがない、ある信念を持っているがそれがただのどうしようもない拘りに思えてならない、そういった社会との不一致をどこかで知ってしまった人は、自分と似た人が居て、その人がどこかで暮らしいてる/暮らしていた、という事実だけで、これから先を生きる活力に繋がるはずです。先例によっては、道半ばにして潰えたような事例もあるでしょう。この点に関しては、類例/先例にあたることで寧ろ、マイナスな影響が及ぶことを示す例であり、メリットだけがあるわけではないことを教示しています。しかし、ここで忘れてはならないのが、どのような手段にもデメリットは付き物だということ、また、このような一見ネガティブな印象を与える例であっても、受け手によってその解釈は様々だということです。時にそれらの例は、反面教師の対象として、奮起のきっかけとして、逆転し、ポジティブな転換をもたらすこともあるのです。
 このような意味で類例/先例の活用は、どこか占いの活用にも似ています。占いというのはある意味、可能性としての自分像を提示されているのに等しいといえるでしょう。「足の怪我に気をつけて」と言われたならば、占いによって「足を怪我する自分」が将来像の一例として提示されたことになります。また同様に、「結婚するけど離婚する危険がある」と言われたり、もっと大胆に「2024年に運気がこれまでで一番良い」と言われたとしても、それは「これからの生き方」としての例をいくつか示されたに等しいのです。その例示を受けて、すなわち占い師の予言を受けて、あなたはどう行動するか、どのように思うか、その選択の広がりと限定が生じてくることになるからです。
 さて、ここまでのところで私は、およそSF的で、際限のない、無益にさえ思える戦略を考案するのに時間とスマートフォンのバッテリー残量を割いてきたわけですが、そこまでする意味は果たしてあったのでしょうか。
 その価値づけも人それぞれだとは思います。ただ、「人それぞれ」のなかの一人である私の考えを書き残しておくならば、「まあ、なんとなくなら意味はある」です。こういうくだらないことを考えていると気が紛れるだけかもしれません。ただそれでも、何となく、もしかしたら自分と同じ、あるいは似ている思いを抱えている/抱えていた/抱えるであろう人が、どこかしらに居るのかもしれないと思うことは、孤独や不安などの蝕みから逃げ出す良い方法であると思います。そういう思考の逃げ道を、とりあえず踏み固めておけば、いざという時に自分を助けてあげられるのではないでしょうか。



 などと書き残しつつ、結局、就職合戦に敗れた私は大学院生です。きっと心のどこかでは思っていることでしょうが、就職しろと言わずに、この道を応援してくれた家族には、感謝の気持ちばかりです。ありがとうございます。
 当たり前ですが、大学院には惰性ではなく、行きたかったから行っているのですが、どうやら文系の大学院生ともなると世間の印象的にはそこまで良いものでもないらしく、何だかひやひやします。きっと背水だからでしょう。夏でも嫌な涼しさです。
 私自身も、決めた当初は正規のルートから外れて逃げているような、そういう負い目を感じていました。今でも少し、感じたままです。いつになったら消えるのか、それも分かりません。
 ただ、面白いことに、一度こっちの道へ進むと決めて、いざ入学、いざ勉強、いざ研究、となると途端に「就職」をすることの方が「逃げ」になるんですよね。この反転現象、なんと恐ろしい。あれ?昨日まで普通に話してた友達なのに急に……みたいな気持ちになるわけです。こんな簡単に物事の正規ルートがひっくり返ってしまうなら、人生なんでもありな気がしてきます。犯罪や人道から外れてしまうような行為以外なら何をしても良いのかもしれません。まあこれから先、急に「俳優になる」とか言い出したら、岡田将生とかの写真を見せながら全力で止めてほしいですが。

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