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我が子の死

「もうこの子はダメだ。どうしようもないのだ。あと一年しか生きられないこの子に、わたしはどう接したらいいのか」
 苦悩の日々が続いた。週に数回の病院通いでさえ、会社の社長は渋い顔をしている。このままではクビになりかねない。元気で将来のある長男と愛する妻のため、今の仕事を優先するか、あとわずかな命しかない次男を取るのか。克彦はその岐路に立たされていたのだ。
 克彦は進次郎を見捨てた。
「生きるため」、「生活のため」という口実で自分を納得させ、長男と妻との生活を選んだのだ。
 本当にこの選択は正しかったのか。自分の罪は誰より大きいと、克彦には痛いほどわかっていた。未熟児で生まれた次男を、医師はとても育たないと診断していた。酷な意見だったが、当時の医療水準では、やむをえない宣告だったのだろう。進次郎の生命力に委ねられた彼自身の運命に逆らい、無理やり治療させる道を選んだのは克彦の判断だった。たとえそれが父親としての責務であり、愛情であったとしても。
 自然の摂理を神の意思だと言うのなら、克彦はあえてその摂理に逆らったことになる。結果はあまりにも無残だった。完全な誤りだったのだ。克彦の愚かな判断は幼い息子をより苦しめたにすぎない。なにもわからぬときのほうがまだよかった。そう思うと、いてもたってもいられなかった。
 不治の病の苦しさは、幼いながらすでに自我を持つ進次郎に対して、あまりにつらい苦痛を味あわせることになった。もしあのとき、今の状況を予知できたなら、克彦は躊躇なく自然の摂理に任せていただろう。
 かわいい、いとおしいという親心の愛情だけでは、必ずしも子供を幸せにできないという現実を思い知らされたのである。克彦は、進次郎をただの一度も遊園地に連れていくことができなかった。いや、行かなかったのだ。
進次郎は一年後に逝った。克彦の自責の念は激しかった。
 克彦の行為はいとしい息子の運命をいたずらに弄び、ただ苦しめていただけだった。あげくに彼は父親として果たすべき唯一の義務を放棄し、次男に残されたわずかな時間を楽しくすごす機会さえも奪ってしまったのだ。この罪は重く、どう言い訳をしてみたところで、取り返しがつかない。一生をかけて背負わねばならないペナルティなのだ。
 そして確信した。
 絶対に、神などいない。いるはずがない。
 運命に逆らったのは、進次郎ではない。それなのになぜ、息子が白血病で泣き苦しみ、死ななくてはならないのか。ペナルティを受けるとすれば、間違った判断を下したひとであるはずで、苦しんで死ぬのは自分であるべきなのだ。
 こんな不条理がまかり通るのだから、神などいないに決まっている。いたとしても、信じないと、克彦は決めた。誰を罰するかも公正に判断できない神なんて、いたとしても信じる価値がないからである。
 以来、克彦は完璧な無神論者になった。

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