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私はマニアなのか

私はマニアなのだろうか。私はコンドーム自販機を巡っている。他人から私を分かりやすく説明すると「コンドーム自販機マニア」となるのだろう。しかしマニアなのか?私は。

マニアとググッてみると「熱狂者」とでる。私はコンドーム自販機に熱狂しているのか?そんな時期もあった気がするが、とうの昔に熱狂の時期は過ぎている。
また、マニアと言われる人々を見ていると自身が熱狂する物を「布教」をする人々も多くいる。私は1度もコンドーム自販機の魅力を伝えたいと思ったことが無い。
メディアに登場するマニアにあるような、歌を作ったり、協会を作ったり、対象を擬人化したりもない。対象を分析したりもない。
マニアであるからには、対象の事が好きなのも条件の1つだろうが、私は最初から自分がコンドーム自販機が好きなのかどうかが分からない。チョコレートが好き、読書が好き、そんな風にコンドーム自販機を思ったことがない。私にとってコンドーム自販機は、熟年夫婦みたいなもので、空気のような存在か?と自分に問うて見たが、結婚したこともないから分からない。自宅にコンドーム自販機が欲しいかと聞かれたら、即「邪魔だからいらない」と答える。それなのにコンドーム自販機を巡り続けて7年が経った。

これでも一応コンドーム自販機については調べてみたつもりだが、そもそも現在残るコンドーム自販機の種類は限られているし、新たに作られることもないので広がりがない。歴史についても調べたが私が探した限りでは、ほぼ資料がなかった。私以外の誰かがコンドーム自販機に興味を持っていたら、機種や歴史について深掘り出来たのかもしれないが、私は機種や歴史について興味が持てなかった。

「なぜ好きなのか」「何が魅力か」などマニアに期待される質問の回答も、色々考えてみたが、皆が期待する奇人変人らしい回答が出てくることも無く、質問について考えれば考えるほど、自分のパーソナリティを深掘りすることになり、どんどん期待を裏切っていく。
マジレスすると、コンドーム自販機は性を扱っているから惹かれるのであって、なぜ性なのかは、私が薄ら死にたいと思いながら生きているからに他ならない。
残念ながらコンドーム自販機でエロだ、下ネタだとはしゃぐ気も無いし、懐かしむ気持ちもない。以前コンドーム自販機を「滅びの美学」と言うオッサンにあった事もあるがそんな気分も無いし、お前のずりネタにすんじゃねぇよとしか思わなかった。
今皆に求められているマニアとは、エンタメ化できる人で、私はそれには向いていない。

分からないと言いつつも、私はコンドーム自販機についてのZineを作り、写真の展示も行っている。最初に作ったZineは私が歩いて見てきた限りで「コンドーム自販機について」を説明しており、恐らく皆が知りたいコンドーム自販機についての回答が載っていると思う。
展示は「珍しいもの」が写っているからなんとか成り立った。しかし珍しいだけで何回もできるものでは無い。展示は写真を通じて自分の存在を知って欲しいと願ったもので、今思うと関わって下さった人々に申し訳ない気持ちになる。私の写真には芸術性はないのだ。
だから今後私はコンドーム自販機についてのZineを作ったり、展示をしたりすることはないだろう。

だけどコンドーム自販機を巡るのは、今は辞めるつもりは無い。
一生降りることのなかった知らない人々が暮らす街の駅に降りて、街を歩くのはとても楽しい。ならば適当な駅を選んで、適当に歩けば良いのかもしれないが、私はそんな適当が出来るほど器用ではない。何らかの目的が必要なのだ。それがコンドーム自販機で、歩いた先にあるコンドーム自販機は間違いなく好きだ。私にとってコンドーム自販機は旅とセット。だから自販機単体で考えると混乱する。
またコンドーム自販機を巡っていると、なぜか思考がクリアになる、色々と考えが整理されたり、私なりの結論が出たりするのが、とても好きだ。自販機を巡り、思い至ったことを書く、これも好きだから、やはり自販機を巡るのを辞めるつもりはない。

私がマニアかどうかを考えるのは、他人に求められる自分でいるかと言う問いと同じだ。メディアにマニアが取り上げられる様になって、マニアに聞かれる事や求められる絵が分かるようになってしまったが、私はそれらに応える必要がない。
求められる自分でいるのは、もしかしたら楽かもしれない。求められている自分でいれば、孤独じゃないかもしれない。だけど「なんか違う」と言う自分の声を無視できない。
私が自ら「コンドーム自販機マニアです」と名乗るのは、自分で自分にレッテルを貼るように思える。コンドーム自販機が死ぬほど好きならば、それに迷いは無いのかもしれない。だけど私が好きなのは「巡って、考えて、書く」ことだ。

メディアがマニアを取り上げるのは、もうしばらく続くのだろう。メディアはいつも「この人はこういう人です」と私達に分かりやすく示してくれる。マニアも今ではメディアによって、人を分かりやすく示す単語になってしまった。
1度分かりやすさに慣れてしまうと、分かったような気になって、その人をそれ以上分かろうとはしなくなってしまう。これまでマニアとしてメディアに登場した人も、マニアであることが全てではなく、マニアな部分も持っている人なのだが、私はそこまで思い至らせただろうか。
他人が私を「コンドーム自販機マニア」と思うのは止められない。だけど私は自分からはマニアとは言わない。人を分かりやすい形にしてしまう、その雑さから私は逃れていきたいのだ。

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