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コンドーム自販機と社会と私1 -淘汰

私はコンドーム自販機を追いかけ続けている。気がつけば追いかけて5年が経った。私はコンドーム自販機を追いかけ始めた時から「コンドーム自販機はいつか確実に無くなるもの」と思っている。なのにコンドーム自販機を追いかけているのは、無くなるまでの間を寄り添おうとしているからだ。
自分の興味を注いできたものが無くなるのを、どうやって受け入れていくか。長い時間をかけて、コンドーム自販機を追いかけるのが、その作業なのかもしれない。

私はコンドーム自販機がを追いかけているのに、コンドーム自販機が、無くなって欲しくないとも思っていないし、守りたいとも思っていない。これには、好きな物なのに無責任とか、薄情とか思う人々の方が多いだろう。しかし、私がそう思うのには、私なりに見てきたこの社会がある。

第二次世界大戦が終わり「もはや戦後ではない」が街に響いていた頃、この国はみんなで同じように豊かになろうとしていた。これは聞こえが良いが、目的にそぐわないものは排除するのと同意だ。排除を繰り返し、多分この国豊かになった。
この時「俺達が頑張った」と思っていた人々、この人達に影響を受けた人々が、長らくこの国を引っ張ってきた。が、私はずっとこのオッサン達が道を塞ぐ存在と思っていた。

この「頑張った俺達」は、頑張った俺達なりの成功を収めているため、自分のやり方や考え、感じ方を疑わない。そして成功を収めているので「偉い大人」になっている。彼等は自分の席を全く譲らない。
私は何度となく、彼等の指示や彼等の影響で、嘘がまかり通っているのを見てきてしまった。古いものがあり続ける悪影響を見すぎてしまったのだ。彼等がどいてくれたら、今どれだけ多くの人々が笑って生活出来ているだろうか。

コンドーム自販機が今、急に無くなっても、増えても、社会には何の影響もない。だけど、私は社会と繋がっている存在で、私が頑なに「残したい」と行動することが未来の人々に何らかの悪影響を及ぼすかもしれない。
また私が、社会に向けて保護活動のようなことをしたとしても、現象を見れば、やはり無くなるのに変わりはないだろう。それを社会のせいにして、自分の中に恨みを溜め込むのも嫌だ。

コンドーム自販機は淘汰される存在。ただそれだけの事を900文字も使って書いてきてしまった。だけど私の思いは「淘汰」の2文字に収まらない。「淘汰」をまだ受け入れていない。そうだけど、そうじゃない。分かっているけど、まだ待って欲しいとの思いがある。

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