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【小説】あの日の君

今日も暑い。
外ではシャワシャワシャワと蝉の声が響いている。
まるで木そのものが鳴っているかのような大きな音だ。
その音を聞きながら、千鶴子(ちづこ)は線香を灯した仏壇に頂きものの最中を供えた。
夫の敏明(としあき)が亡くなって5年が経つ。
定年退職後も嘱託として勤め、その後も雇いのマンション管理人の求人を見つけて働いていた。亡くなったのは、そこを退職してすぐのことだ。

「散歩に行く」と家を出た途中で倒れ、千鶴子が病院に駆けつけた時には既に意識が無く、さよならを言う間もない別れだった。くも膜下出血との診断だった。
これからゆっくり2人で過ごせると思っていた矢先だったので、暫く茫然と過ごしていたが、ようやく最近になって気持ちの上でも落ち着いたように思える。
とは言え、今でも夕方になると「ただいまー」という声と共に玄関が開くような、そんな気がして仕方がない。

息子や娘が時々様子を見に来ては、「ちゃんと食べてるのか」だの「熱中症には気を付けろ」だのと気を揉んでくれる。
ありがたいが、子供達にもそれぞれ家庭があるので、世話になろうという気は起こらない。
近いうちに必要最低限の物以外は処分し、最近増えてきている高齢者向けの集合住宅に入ろうとパンフレットを貰ってきている 。
ただ、小さな一戸建てとはいえ、長年住んだ家には愛着も思い出もある。もう少し、もう少し…と思っているうちに月日が過ぎてしまっていた。
そろそろ、真剣に身の振り方を考える時期なのかもしれない…と思いながら、仏壇脇に飾ってある敏明の写真を見つめた。
唯一の趣味だった釣りで、大物の鯛を釣り上げたときの写真だ。
写真の夫は、思い出の中の姿のまま、満面の笑みで笑っている。

ふと時計を見ると、もう夕方6時だ。
陽が長いとは言え、そろそろ買い物に出なくてはと千鶴子はゆっくりと立ち上がった。

陽が陰っても真夏の空気はまだまだ暑い。
ため息をつきながら、近くのスーパーまでの道を歩き出した。

きゃあっという甲高い声が聞こえてそちらを見ると、浴衣や甚平を着た数人の子供達が歩いている。
そういえば、今日は近所の神社でお祭りがあると回覧板に書いてあったっけ。。
恐らく、子供達はそこへ行くのだろう。楽しみで堪らないという顔で笑いあっている。
無邪気な笑い声を微笑ましく思いながらスーパーへの道を急ごうとした時、一人の女の子が足がもつれて転んでしまった。

千鶴子が「あっ」と思ったのと同時に、女の子の泣き声が辺りに響き渡った。
友達の女の子が手を貸して起き上がったものの、浴衣の裾が汚れてしまっている。運の悪いことに白地の浴衣だったため、かなり汚れが目立つ。足から少し血も出ているようだ。
痛いのと、浴衣が汚れたことのショックからか、「痛い。どうしよう」と女の子の泣き声が更に大きくなった。

ハンカチかティッシュを貸した方が良いだろうか…でもこのご時世、お婆ちゃんとは言え知らない大人が話しかけるのは…と千鶴子が逡巡していると、
「かのんっ!おんぶして連れて帰ってやるから乗れっ!」
と、泣き声を掻き消すくらいの大きな声が響いた。
子供達の中で一番背の高い、恐らく少し年上の男の子が、かのんと呼ばれた子に背を向けてしゃがみこんでいる。
大きな声に気圧されたように かのん は泣き止み、おずおずと男の子の背中におぶさった。

「雄大(ゆうだい)!!!みんなを連れて神社に行っとけ!後で追いかける」
そう言うと、男の子は かのん を背負って元来た道を戻り出した。
雄大と呼ばれた男の子は「先に行こう」と残った子供達に声を掛け、先頭に立って歩き出した。皆、その後をついて行く。

千鶴子は一連の流れをぼうっと見ていた。
ふと、記憶が蘇る。まだ小さかった頃。
今の子供達と同じように、お祭りに行く途中だった。
「今日はお祭りだからね。特別だよ」と母が仕立ててくれた浴衣と新品の下駄を履いて、近所の友達と出掛けた。その途中。
履き慣れない下駄のせいで指の間が擦り切れてしまった。でも「早く早く」とはしゃいでいる友達には言えない。我慢して歩いているうちに、自然と足を引きずる形になっていたのだろう。小石に躓いて転んでしまった。
転んだ先が、昨晩の雨で出来た水たまりだった。現在のようにコンクリートではない土の道なので、水たまりも泥水だ。茶色い水で湿った浴衣。
友達も呆然と千鶴子を見ている。

どうしよう、お母ちゃんに怒られる?
足が痛い。
どうしよう。どうしよう。。。

涙が盛り上がった時、
「千鶴子、どうした?」と声を掛けられた。
敏明だった。

「あー、転んだんか。着替えにゃいかんな。怪我もしてるやないか。おぶって連れて帰ってやるわ」
敏明は近所に住む、3つ年上の子供だった。
もっと幼い頃は一緒に遊んだが、成長するに連れ、自然と距離ができた。同年代の男の子とカバンを振り回しながら歩いているのを良く見かけていた。
「ほれ、おぶされ」
背中をむけてしゃがみこまれる。
「でも…敏明ちゃんの服が汚れる」
「俺のシャツなんかどうでもいいさ。そのままじゃ祭りに行けんじゃろ?」
優しく諭されて、敏明の背中におぶさった。
思ったよりも大きく、広い背中だった。
「初子(はつこ)は先にお祭り行っとけ。他の子も来とるんじゃろ?千鶴子は後で届けたるけ」
友達に声を掛けて、千鶴子を背負ったまま家までの道を戻ってくれた。

家に帰った時 母に叱られたのか、その後の祭りはどうだったのかは思い出せない。
ただ、おんぶしてくれた敏明の背中が温かかったこと。
いつもより高い目線で見た景色。
沢山の赤とんぼが近くを飛んでいたこと。
何故か、そんなことの方が強く記憶に残っている。

その後、年月が経ち、お見合いの話が来た。
相手は敏明だった。
まだ家同士で縁談の話をする時代で、見合いの席で初めて相手と対面するなんてことも普通だった為、近所の見知った家からの縁談話ということにびっくりした。
しかも、「敏明の、たっての希望で」と父から聞かされた時には更に仰天した。
そして同時に、嬉しかった。
忘れられなかったのだ、あの背中の温もりが。

縁談はすんなりと話が進み、千鶴子は敏明の元へ嫁入りした。
一度、思い切って「何故、私とお見合いしようと思ったの?」と聞いたことがあった。
敏明の答えは、「お前が転びそうになったら、今度は転ぶ前に俺が助けたいと思ったから」だった。
敏明も、あの出来事を覚えていたらしい。

敏明と連れ添って歩いた道は、もちろん平坦な道ではなかった。
でも、幸せだった。
老後の思い出は作れなかったけれど、今もこうして、思い出すことで敏明から幸せを貰っている。

先程の かのんちゃんが千鶴子と一緒とは限らない。
しかし、心細い時に差し伸べてくれた大きな手は、彼女の心に温かな灯を灯しただろう、と千鶴子は思った。

子供達の声は次第に遠くなり、夕闇も濃くなっていく。
完全に陽が暮れるまでに買い物を済ませなければ。
今夜は、敏明が好きだった生姜焼きを作ろう。そして少しだけ仏壇にも供えよう。
そうすれば、”一緒に”夕膳を囲んだような気持ちにもなれるだろう。

そう思いながら、千鶴子はスーパーへの道を再び歩き出した。


*小説サイト『エブリスタ』で、“鈴乃さくや”名義で公開していたものです。


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