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自転車レースのポディウムガール、要る?要らない?

1月の末、F1のグリッドガールが廃止されることが大きな話題になりました。
スポーツや大きなお祭など公的な性格を持つイベントでは性的な表現を控えましょうという動きは世界中で同時進行しており、今後多くのスポーツの現場で同様の動きが加速することは間違いないでしょう。

私はポディウムガール抜きの表彰式を歓迎する派ですが、普段フェミニズムに興味を持ってない方々にとっては、「美人が表彰式盛り上げることのどこが悪いの?」「男女平等とかポリコレとか急に言われて知らんがな」って感じではないでしょうか。
だからフェミニズムとスポーツ両方に関心を持つ者の一人として、なぜポディウムガールの是非がこれほど熱い争点となるのか、なるべく解りやすいようににまとめてみようと思います。
眉を吊り上げて「こんな表彰式は即刻止めろ!」という程の気持ちはなく、皆が思う「やっぱり表彰式の音楽は『とれたま』が良かったなあ」とか「何でペットショップボーイズなの」と同じノリの、「ここがちょっと気になる」「こんな風だったらもっと良いのになあ」という程度の提案ですが、我々が黙っていたら解らない人たちは解らないままで溝が広がるだけなので、この機会に読んで考えてくだされば幸いです。

まず最初に断っておきたいことをひとつ。
私は、ポディウムガールたちが広報、進行などレースにまつわる様々な仕事をこなすプロフェッショナルな存在であることを理解し、敬意を抱いているつもりです。
私自身はこれまで少しの違和感と素直に楽しい気持ちが入り混じった状態で自転車レースの表彰式を観ていましたが、「こんな下品な表彰式をするスポーツなんて観たくない!」というほどの嫌悪感は持っていません。
現実にそういう理由で自転車競技を嫌っている層もゼロではないとは思いますが。
将来、表彰式のあり方が変わることがあっても、彼女達のこれまでの働きを否定する気はありませんし、彼女たちが不当な形で仕事を失うようなことが無いよう期待していますが、その問題と、これからの表彰式にポディウムガールが必要か否かは別次元のものとして考えたいと思います。
ペットショップボーイズの音楽がいかに素晴らしくとも、その音楽が表彰式に相応しいかどうかは別問題であることと同様に考えていただけたらと思います。

表彰式に込められた価値観

「眉を吊り上げて」中止を訴えるほどではないとは言いましたが、過去にポディウムガールに対するセクハラがあったことは忘れていはいけません。


ちなみにこの時は所属チームがサガン選手に厳しく注意し、後日謝罪動画を公開しました。
セクハラを笑って許さないというチームの対応は、言葉本来の意味での「大人の対応」でした。

単発のセクハラ事例は別として、ポディウムガールの存在自体が差別に該当するか否かという問題について考えてみます。

上の表を参照してみても、ポディウムガールの存在は下の水色のゾーン「ステレオタイプ化」に引っかかるぐらいでしょうか。
厳しい見方をする人だと「非人間化」とジャッジするかもしれません。

要するにね、ポディウム「ガール」なんですよ。レディでもウーマンでもなく。
この言葉だけ見ても、彼女達に求められている要素、そして表彰式が世界に向けて発信するメッセージの意味が理解できると思います。

つまり彼女達に求められているのは「若さ」と「美しさ」さらに言えば「笑顔を振りまくアクセサリーのような地位に甘んじている奥ゆかしさ」です。
そして彼女達が表彰台で勝者を祝福する様子が意味するところは「強い男は『若く美しい女性』を従えて(時には性的なサービスを受ける様子まで見せ付けて)その強さを誇示しなければならない」という価値観です。

これって、古い時代のマチズムですよね…?
スポーツはするのも見るのも男だけっていう時代の感覚を引きずってますよね…?
勝者を称えるのが『若く美しい女性』でなければならない理由を現代の感覚で説明できますか?

近年、幾つかの女子レースでポディウムボーイが登場して優勝した女子選手をほっぺへのチューで祝福するという場面がありましたが、例え男女を入れ替えても『   』に入る言葉が性に言及している限り、そこにはセクシズムの要素を認めざるを得ません。
「これは男の仕事」とか「女はこう振舞うべき」など、特定の性と特定の社会的役割を結びつける考え方はセクシズムの本質だからです。

本来なら勝者は老若男女から称えられるべきですし、表彰式は老若男女が観るものです。
そして観客や視聴者の中には、当然判断力の未熟な子供も含まれます。
ポディウムガールが勝者を祝福する光景は、「女は若く美しく、勝者たる男の側で笑顔を振りまかなければならない」という価値観を追認することであり、影響を受けやすい子供達に、性と社会的役割を結びつける価値観を刷り込むことに繋がります。

観客や視聴者が居酒屋ノリであの女子選手がカワイイとかあの選手がイケメンとかで盛り上がるのや、レースを終えた選手がプライベートな時間に羽目を外すのは全然構わないんです。
でも表彰式というフォーマルなイベントが発信するメッセージは、ポリティカルな公正さが求められます。
スポーツの世界はマチズムと親和性が高く、多くの女子選手がセクハラ被害に遭っているという現実はあるけれど、いやその現実があるからこそ、表彰式のような場面では、スポーツの世界は特定の性に特定の役割を押し付けるようなことはしませんよという建前を大事にして欲しいのです。


多様な性と性規範への配慮

先ほど「時には性的なサービスを受ける様子まで見せ付けて」と述べました。
ポディウムガールが登場するレースは多数ありますが、表彰式での流儀は地域や主催者によって様々です。
ほっぺとほっぺを近づけて唇で「チュッ」と音を立てる、挨拶のキス。
またはポディウムガールの口紅が選手のほっぺにクッキリ残るようなほっぺへのキス。

欧米では挨拶のキスは男女間でも同性間でも行われていますが、さすがにほっぺキスだと殆どの地域で性的なニュアンスを意味することになります。
となると、宗教的、性指向的な理由、または個人的な性格ゆえにほっぺキスに対する拒絶感を持つ選手がいる可能性も考慮しなきゃダメですね。
最近は選手もスポンサーもヨーロッパ以外の文化をバックグラウンドに持つ者が増えてきてるから尚更です。
実際、選手の中にはポディウムガールを悪しき伝統とみなし、ほっぺキスを受ける際に笑顔ひとつ見せない者もいます。

「美しい女性からのキスで嫌な気分になる男はいない」と思い込んでいませんか?
「男ならこれを喜んで当然」それもセクシズムの本質です。


競技の伝統を守るために受け入れるべき変化

でもポディウムガールの存在って伝統じゃん?って思う人も居るでしょう。

確かに伝統は大事ですよね。
私もペットショップボーイズよりクラシックなど伝統的な生楽器を使った音楽が好きです。

フェミニストは「伝統」という言葉にしばしば強い警戒心を抱きます。
女性に対する暴力や搾取が「伝統」の名の下に美化され強化されるということは世界中のあちこちで歴史的に、そして現在進行形で行われているからです。
ポディウムガールという伝統がこれに該当しているかどうかは微妙なラインではあります。
表彰台上で行われていることが「暴力」「搾取」でなくても、世界中へ向けて発信されるイメージが古い時代のジェンダー観の産物であり、差別や抑圧を助長しているとしたら…?

そして自転車の世界に「オメルタ」という悪しき伝統があり、ドーピングの温床になっていたことも、私たちが忘れてはならない事実です。
自転車ロードレースはオメルタを捨て、ドーピングを排除するためにあらゆる努力をしてきました。
そうしなければ、観客やスポンサーが離れ、子供たちが自転車競技に憧れなくなり、伝統ある競技自体が衰退の一途を辿ることは間違いなかったからです。

自転車以外の競技でも、発祥の地から世界中に広がる過程でルールは国際化と近代化を繰り返しています。
それを怠った競技、例えば大相撲が内部に大きな問題を抱えていることはご存知でしょう。
競技の伝統は守らなくてはならないけれど、競技を取り巻く環境は常に変化しています。
その変化に対応することが伝統を守るために必要な場面もあるのです。


ポリコレポリコレうるせーよ

フェミニストっていつも文句言ってばっかりじゃん…と思う人が居るもの理解できます。
実際、悪質クレーマーみたいな自称フェミニストもいますし、興味ない人にとってはまともなフェミニストよりそっちの方が印象に残るでしょうし。
正直、多くの人が問題ないと思って楽しんでいる場面で水を差すようなことを言うのは気が引けます。
でも、声を上げ難い状況に耐えて黙っていることは、様々な差別を容認し、暴力行為を隠蔽、さらには助長することにも繋がります。
あなたが今「そんな大げさな問題じゃないでしょw」と思ったのも、被差別者や暴力被害者が沈黙を守っている現状が生み出した錯覚かもしれません。

何百年何千年と続いてきて来た差別が、ようやく差別と認識され、撤廃すべきものと理解されるようになったのも、勇気をふるって異議を唱えてくれた先人達が居てくれたからこそです。

それは男女差別の問題だけにとどまりません。
自分たちの権利のために命がけで戦う者がいなかったら、フランス革命も奴隷解放もなかったでしょう。
歴史上、これらの出来事がなかったら今も私たちは男も女も選挙権も持たず字も読めないまま地主の言いなりに働かされていたかもしれません。


断絶と排除ではなく、対話と理解を

プロチームの経営危機、ドーピング、事故防止…自転車ロードレースの世界には様々な問題が山積しています。
その中で表彰式にまつわる問題が最優先課題かというと、決してそうは思いません。
私は「フェミ共がうるさいからポディウムガール止めるわ」という姿勢で慌てて表彰式の内容が変更されて「やっぱりポディウムガールいないと寂しいよね」という状態になることは望みません。
時間をかけてでも、新たなアイディアを盛り込んだ今の時代に相応しい表彰式を作って欲しいと思います。

まず必要なのはは対話と理解。
今すぐ廃止するのはペットショップボーイズだけで充分です。


追記

…ってここで結ぼうと思ってら、表彰式とはちょっと違う場面ではありますが、とんでもない事件が起こりました。

…正直、言葉を失いました。

女は一人の人間ではなく、戦う男へ与えられる「ご褒美」として、自分たちの性欲のために消費してよい…という旧日本軍的な観念を、21世紀生まれの球児たちはどこで刷り込まれてしまったのでしょう。
そしてこのような暴力事件を、まるで微笑ましいハプニングのように伝え、被害を受けながらも気丈に振舞う稲村亜美さんを「神対応」「大人の振る舞い」と持ち上げる報道は、泣き寝入りする被害者を美化、つまり暴力を容認して全年齢に向けて伝えているという点で、コンビニで買える18禁雑誌以上に有害です。

自転車レースで表彰される選手は、2013年当時のサガン以外はほとんどが分別ある大人だから、こんなことは起こらないと信じたいところですが、伝統的なポディウムの形式がこのような価値観の形成に寄与している可能性を考えると、気が重くなります。

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