見出し画像

六畳の不協和音~母の葬送4

2021年12月25日。窓を大きく開けると風は程よい冷たさです。きょうは仕事納めですが出勤するのは夕方5時。それまで時間はたっぷりあるので布団を干そう。
おりゃっ!と掛け声で勢いをつけて重く湿った布団を肩に担ぐと、つんと汗のにおいがしました。なにしろ2020年3月に子宮体がんの手術をしてから抗がん剤治療、さらに目の手術いろいろと、あんなこともこんなこともあって三年近くのほとんどを寝たきりで過ごしていたのです。
時々布団乾燥機を使っていましたが、ベランダまで布団を担いで行って干すなんてとても自分の力では出来ませんでした。
よく干したお布団はお日様のにおいがして、なんだか足をばたばたしたくなります。
まだまだこれから出来ることを一つずつ増やしていこう。

「死んでも拝むな」

仕事納めの翌々日、年末最後の大仕事がありました。11月9日に90歳で他界した母の納骨です。参列者は姉と私、90歳の父、姉の息子家族です。我が家は仏壇も神棚もない無宗教なので順番に焼香をして、それぞれ別れの挨拶をしました。
我が家の無宗教はどうやら母方の祖父から始まっているらしいのです。
筋金入りの偏屈な爺様は「俺が死んでも拝むな。どうしても何かを拝みたくなったら、その時はお天道様を拝みなさい」と常々言っていたのを鮮明に覚えています。
自分の心が弱ってしまってどうしても何かに縋りたい時、何かを崇拝するのではなく
「お日様の光を体いっぱいに浴びなさい」というのです。
お天道様は誰にでも平等ですからね。
自然崇拝やアニミズム的な信仰を説く意図ではないと思います。
よく「お天道様に顔向けできない…」などと言いますが、人様に恥ずかしくない生き方をしなさいと言いたかったのでしょうか。
「どうしても何かを拝みたくなったらお天道様を拝みなさい」
私はいい言葉だなあと思ってずっと心の中で大切にしています。

今回はその爺様の長女であり、私の母である人の納骨です。
緊張します。
頭のてっぺんからつま先までじろりと母に一瞥されたような気分で、私は骨壺に深く一礼しました。
「お母さん今までお疲れ様でした。お世話になりましたありがとうございました」と声に出して最後の挨拶をしました。
母に心の中を覗かれやしないかと冷や冷やしながら。悪態をついたりしたら、あとでお灸を据えられそうですからね。

いよいよ母の骨壺を中に納めて墓石の蓋を閉める時、90歳の父が車いすから伸び上がるようにして中を覗き込もうとしていました。
その場にいた全員がきっと同じことを考えたと思うのですが、父は自分の入る場所はあるのか、残りのスペースを確認したかったのだと思います。
実はまだこのお墓には父方の祖母しか入っていません。今回そこに母が入り姑と嫁が再会したわけです。祖母と母の骨壺は、霊園職員の手によって左隅の奥の方へずずっと寄せられて行きました。父の入るスペースはまだまだ十二分にあります。

冷戦の火種は鹿児島の味と洗濯板

母にとっての姑である父方の祖母とは、私が幼いころ一時的に同居していました。仕事をしていた母に代わって私達姉妹の面倒を見ていたのです。
鹿児島から出てきたばかりの祖母は「東京の醤油はしょっからくてギシギシしている」といっては黒糖と酒を煮詰めたりしながら故郷の味に近づけようと工夫をしていました。
今でこそネット通販や全国のアンテナショップに行けば醤油や味噌の発酵食品から名物の食材まで何でも手に入りますが、祖母が東京に出てきたばかりの1960年代当時は鹿児島の懐かしい味を求めて苦労したと思います。

私と姉は六畳間で寝起きしていました。布団を上げてテーブルを出すと、嫁と姑の冷戦はすでに始まっています。
祖母と母、父、姉と私の5人で囲む朝の食卓は、いただきますを言った後は誰も言葉を発しません。
誰かが沈黙を破ると、巻き込まれるのはいつも子どもです。
「リンゴもう一切れ食べる?」
祖母の一言で母の「怒」の感情が2オクターブ急上昇します。
「食べ過ぎです。子どもですから」
そんなリンゴ一切れくらいで…
「あまり甘やかさないでください」
食卓の緊張は更に高まり「冷」の空気がどん底まで吹き降ろす。
幼心に学んだことは「沈黙は金」耐えるしかありませんでした。

私も姉も、祖母の作る鳥の炊き込みご飯が大好きです。
ちょっぴり黒糖が入った祖母のふるさと鹿児島の味。
しかし母は「田舎の味付けは薄ら甘くて品がない」だのと、私たち姉妹の前で祖母の作る料理を酷評するのです。母は魚もおろせないし目刺しを焼いては消し炭のようになり、ハンバーグは固くて味がなく…料理は何をやっても本当に下手です。
テレビドラマの美味しい楽しい明るい食卓なんて絵空事でした。
さらには洗濯戦争もよく起きていました。
1960年代の洗濯機、脱水はまだ手動で本体横にある二本の棒に挟んでハンドルを回して絞るタイプでした。それでも働きながら家事をする母にとって洗濯機は必需品だったと思います。
一方の祖母は。
「洗濯機はぜんぜん汚れが落ちない。やっぱり靴下なんかは洗濯板でゴシゴシやらないと駄目」
と何でも手洗いできれいにして、Yシャツや白い割烹着、敷布もパリッと糊を効かせて干していました。
心の中で私はいつも祖母の味方をしていました。母はそれを察していたのでしょうか、もう祖母のやること何から何まで気に入らないわけです。
そりゃ嫁と姑ですから子どもには理解できない領域があるのは当然ですが、家族の和を乱すのはいつも母の癇癪でした。
こうして文章にすると、改めて母は人間嫌いでコミュニケーションが下手だったのだなあと思います。
母を客観的に観察したことを書いたのであって悪口のつもりではないので、お母様どうか怒りの矛先を私に向けないでください。

大好きなおばあちゃん

結局、私が小学校に上がるとすぐに祖母は近所に引っ越して同居は解消されました。しかし歩いて10分ほどの場所なので、学校帰りによく祖母のところに顔を出していました。
お茶を飲んで干し芋を食べてにこにこ笑って一緒に日向ぼっこをして。
中学高校、社会人になって20歳を過ぎても祖母が昼寝をしていると一緒に布団に潜り込んで添い寝をしたものです。
祖母のパリッと糊のきいた敷布はやっぱり特別です。私にとって祖母は、安心できるひだまりのような場所なのです。

1月の正月気分がまだ抜けきらないある日、頑健な祖母が風邪で入院しました。私はバイクをすっ飛ばして大好きなおばあちゃんに会いに行きました。
「大きなバイクできたのか、えらいねえ。もう正月からみんなの元気な顔みたから、ぽっくりいってもいいわ」
いつもの笑顔で迎えてくれたおばあちゃん。病院のご飯もしっかり食べたし、まだまだ大丈夫だと思いました。
しかし病院の説明ではレントゲンでは肺にかなり水が溜まってもう長くはないのだと聞かされました。95歳だからもうあまり痛みの感覚は鈍っているからそれほど苦しくはないのだと。その言葉が信じられないほどおばあちゃんは笑顔でした。
「正月からみんなに会えたから、
安心してぽっくりいけるよ」
と元気に笑っていました。
その一週間後おばあちゃんは95歳で亡くなりました。

風に吹かれて

お墓の中の嫁と姑は今どれだけ重苦しい空気に包まれているのでしょうか。考えるだけでも胸が詰まります。
再び母と祖母の冷戦が始まると…いずれ遠からず入るであろう父はどうするのかしら。そういえば嫁姑の冷戦時代も父の影はまったく見えず、家族サービスや家族旅行など、気配すら感じることはありませんでした。父としても夫としても家庭を顧みない人ですから。
母と祖母に背を向けるようにして父の骨壺が入ったとして、ああ、そこには私は入りたくないな。墓石の下の暗く狭い穴に押し込められて、子どもの頃のあの六畳間の重苦しい冷戦状態が永遠に続くなんて、いやだ。
お願いだから私は散骨にしてください。
風に吹かれて気の向くままに。
雨が降ったら流れるままに。
小さなかけらを鳥たちがついばんで
遠くへ連れていってくれたらいいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?