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薔薇は散りゆく~母の葬送1

火曜日の午後8時40分。約束の時間よりも少し早く電話が鳴りました。
「間に合わなかったの 
さっき病院から電話がきていま向かってる」
姉から告げられた母の死去。
母は先月90歳になったばかりでした。

意識がある時の母はかっと目を見開き会話もしっかりしていたというのですが、きょうの昼間行った時は呼吸が苦しそうで呼びかけても返事はなかったそうです。でもまだもう少し、残された時間はあると思っていたのに。

もう2年近く私は母と会っていません。
私が子宮体がんの手術と抗がん剤治療を受けたのを内緒にしていたこと。さらに新型コロナウイルスの感染拡大もあり、お互い免疫力が極端に低下しているので面会が出来なかったのです。

高齢になってからの母は何度も転倒して腕やろっ骨、大腿骨を骨折し入退院を繰り返していました。背骨を圧迫骨折してからは自力で歩けなくなり、大腿骨の骨頭壊死で人工関節の手術をしたものの車いすに頼る生活になりました。
そのうちに食事ものどを通らず、この一年病院のベッドに寝たきりのまま点滴だけで栄養を摂っていました。
胃に穴を開けて流動食を注入する「胃ろう」だけはしないと決めていましたから、むしろよく持ちこたえているなと思っていたくらいです。

私が夕方に眼鏡店でかけ具合を直してもらった母のサングラスは、そのまま形見になりました。

あしたは第2次岸田内閣の発足だし、衆議院選挙で当選した新人議員の初登院もあるしな、報道局は大忙しだと思いながら、私は忌引きで休ませて欲しいと職場に電話をかけました。

翌日、電車に二時間ゆられ私は関東近郊のベッドタウンにある実家に向かいました。
姉は私よりも三つ年上でことし還暦、90歳の父の介護をしながら2人と犬1匹で暮らしています。
駅に到着すると、姉はダックスフントのダンボくんを連れて待っていました。
「あしたの葬儀、何したらいいのか不安だらけだから、来てくれて助かった」
「きのう火曜に亡くなって今日が水曜で、葬儀が木曜って早いけどその方がいいか」
新型コロナウイルスの感染は減ってはきたものの、人が大勢集まる場所はまだ気が抜けない状況です。高齢の親族や小さい子どもが集まるのは感染の危険があるため、90歳の父、姉と私、姉の二人の息子と妻で家族葬にしました。犬のダンボくんは母に会ったことがないので家でお留守番です。
我が家には神棚も仏壇もありません。両親も私たち姉妹も無宗教なので僧侶の読経もなければ戒名も必要ないのです。
しかし宗教の宗派に沿ったセレモニーがないだけに、困ったことがあると姉が切り出しました。
「ねえ、お母様はどんな人生だったんですかって聞かれたの。葬儀社の人と打ち合わせで。何が好きとかどんな性格とか」
「ええっ?そんな…明るくて社交的でとかいうやつ?」
「そう、そう聞かれた。で、困った」
母は「人間ギライ」「反面教師」というキャッチコピーが似合う人。
「思い出話に花を咲かせる…なんてトゲのある花ばかりが咲き乱れちゃう」
という姉の困り顔に私は吹き出してしまいました。
そうだな、本は好きだった。油絵を描いていた。棺に画集を入れようか。
薄暗くて本ばかりがひしめく書斎で私たちは画集を探しはじめました。
「セザンヌか、ゴッホ、ユトリロ?」
ユトリロ展は子どもの頃に母と見に行ったことがあります。
その時ユトリロの母の作品も一緒に展示されていたのですが、珍しく母も私も「ユトリロ本人よりも母の作品の方が好き」と意見が致したのです。だからユトリロじゃないな。
「シャガール!好きだったよね」姉がそう言って画集の背表紙を指でたぐっていきますが、ない。シャガールだけがなぜか見つかりません。
ゴーギャン、モネだって何冊もあるのにシャガールだけが行方不明でした。
捜索をあきらめた姉は
「母と一緒に棺に入るなんてたまらないってシャガールは逃亡したのよ」
「一緒に連れて行かれたらたまらんよね。あんな陰々滅々とした母親と棺に押し込められるなんてさ。たばこ吸って眉間にしわを寄せてコーヒー飲んでる姿しか浮かばないもん」
すると、姉が突然明るい声を上げました。
「そうだ!コーヒー入れてあげようコーヒー豆!それとさっき焼いたバナナケーキも一緒に」
夕方、熟し過ぎて皮が黒くなったバナナをつぶしてケーキを焼いたのだった。
母のために焼いたということになった。
行き先は天国なのかどこかわからないけれど、汽車の中でコーヒーとバナナケーキをいただきながらの旅。
「あっ、それなら銀河鉄道だよお姉ちゃん。宮沢賢治を入れてあげよう」
私は本棚から宮沢賢治の本を一冊抜き出しました。宮沢賢治は逃がしません。しかしシャガールの画集は行方不明のままです。
その時、私はいつも手帳にポストカードをはさんでいることを思い出しました。
「竹久夢二のポストカードがあるからさ、手紙書こうよ」
夢二が描いた若き女性のうしろ姿に一文が添えてあります。
『薔薇は 散りゆく』関屋敏子曲  川路柳虹詩
楽譜かレコードの挿し絵なのでしょう。
あはは、ぴったりだ。90歳だものとっくに散り時。文句はないわね。

私は母から何度か手紙を受け取ったことがあります。20歳を過ぎて間もない頃。
「あなたは 鏡に映った自分の姿を 見たことがありますか」
そのあとに続く文章は読まずに、いいえ読むことができずに、片手で握りつぶして捨てました。それから幾度かはがきをもらったことがありますが、一度も読むことはありませんでした。
今回、母に手紙を書くのは初めてです。
郵便番号は〒114-1059 いい世-天国。
「きれいな花を咲かせてください 
 長い間おつかれさまでした ありがとう」

棺には庭に咲いた花々と、もうこの世からいなくなってしまった歴代の猫たち、ベルやチビたちの写真も一緒に納めよう。
旅立つ母が寂しくないように。

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