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「編曲」されたクラシック音楽作品を聴く楽しみ

最近聴いているクラシック音楽作品は、作曲者が作った原曲から「編曲」された作品を聴く機会が多い。

その「編曲」のパターンは様々である。

例えば、演奏形態でいえば、通常オーケストラという様々な楽器を大人数で演奏しているものをピアノ1台だけに編曲したものや、逆に通常ピアノ1台で演奏されるものをオーケストラで演奏しているものもある。

吹奏楽で演奏されるために編曲されたものや、例えばジャズなど異なるジャンルに編曲されたものもある。

つまり、良く聴きなれた曲なのだが、編曲によって一味も二味も異なる雰囲気で演奏されることになる。

中にはまったく違う雰囲気になってしまって、良く聴かないとわからないようなものもあるのだが。

それが、元の作品の新たな面を発見させてくれることが楽しく思うのである。

編曲は、作曲家本人が編曲しているものもあるし、全くの赤の他人が編曲しているものもある。

赤の他人が、ましてや作曲者とは全く面識がない人物が、編曲することで作曲者が残した作品に対する思いが大きく変えられてしまったのではないか、と思ったことがある。

作曲者はその作品を作曲する過程で、交響曲なのか、ピアノ曲なのか、そしてどんな楽器でそのフレーズが演奏されるのかなど相当考えに考えて楽譜に表したはずである。

編曲はそれを否定してしまうに等しいのではないか。

例えば、編曲者は作曲者ベートーヴェンはこういう楽器編成にしたけど、この曲にとっては編曲者が考えたような形がいいのではないか、というように。

でも、もしかしたら、ベートーヴェンが赤の他人によって編曲された自分の作品を聴いたら「自分では思いもよらなかったが、こっちのほうがいいじゃないか」と思った可能性もゼロではないかもしれない。

編曲者も決して悪意を持ったうえでなく、元の作品をリスペクトしたうえで、自分なりの気づきや思いによって編曲を通して表現をしている。

その編曲者のフィルターを通した新しく生みだされた作品を新鮮な気持ちで聴いてみる。

こんな表現ができるのか、これは面白い考えだ、と新たに発見し驚くことで、元の作品に加え、さらに音楽鑑賞の幅を広げることができることに気づいたことで「編曲」された作品をさらに聴きたくなるのである。


HeungSoonによるPixabayからの画像


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