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笑顔のアンネ ユダヤ博物館 フランクフルト

ユダヤ博物館全体像

フランクフルトが金融の街として栄えたのは、ロスチャイルド家の影響が大きいという事は言うまでもない。
そのロスチャイルド家が住んでいた場所は、現在ユダヤ博物館になっている。
Jüdisches Museum
マイン川沿いの白亜の大きな建物は、とても目をひく。

説明によると、この建物自体が分裂された過去を持つ民族を表しているという。
階段部分は、住居として使われていた当時のまま残されているそうだ。

館内の様子

私は開館と同時に、一人目の訪問者としてここを訪れた。
博物館に勤務されているかたは、今までに会ったどの博物館のかたよりも親切だった。
私のすぐ後に入場された年配の女性のかたと一緒に、約2時間半に渡り、たった二人のために全ての部屋を事細かに案内して下さったのだ。
一人で見学するのと、ガイドが付いて下さるのでは雲泥の差であり、大変貴重な時間だった。

以下、特に残しておきたい写真と備忘録。

ロスチャイルド家について

まずは、ロスチャイルド家について。
ロスチャイルド家の始まりは、Mayer Amschel Rothschild マイヤー・アムシェル・ロートシルト。
ロスチャイルドは、ロートシルトの英語読みで、赤い楯を表す。
Schildは、盾だけではなく表札を表す意味もあるが、「赤い盾」がロスチャイルド家を表すことは既に通念だと思う。

当時はユダヤ人は苗字を持っておらず、たまたま住んでいる建物に赤い楯の模様が入っていたのでこう呼ばれるようになり、1807年にフランス統治下において初めて苗字を認められるようになったそうだ。

こちらは、赤い盾の後に住んでいたと言われる緑の盾の家。
建物一棟丸ごとではなく、その右側半分のみがロスチャイルド家のもの。

ちなみに、マイヤー氏はこの白亜の建物に住んだことはないそうだが、ロスチャイルド家は初めてゲットー以外に居住地を所有したユダヤ人だ。
彼はフランクフルトのゲットーで生まれ、後には国の財政をも動かす大金持ちになった。

フランクフルトのゲットーは、大聖堂より少し北の地域に存在していた。
彼は両替商から銀行家として成功し、5人の息子をそれぞれの国に配置。
ドイツのみならず、世界の金融網を掴んだ。

彼の成功の最初の鍵となったヘッセン・カッセルの選帝侯ウィリアム1世。

5人の息子達の肖像画。

ロスチャイルド銀行の銀行営業許可証を見つけた。

マイヤー氏は、フランクフルト市内のもう一つのユダヤに関する博物館Judengassemuseumに隣接する旧ユダヤ人墓地に眠っている。
この博物館が、かつてのゲットー跡地だ。

お墓を取り囲む塀には、犠牲となった方々のお名前がブロック状に埋め込まれている。
アンネの名前も、この塀に埋め込まれているそうだ。



近代の歴史

ここはロスチャイルド家だけの博物館ではない。
博物館は、19世紀以降のユダヤの歴史について、総合的に説明するものだ。
近代から遡るような順番で、その歴史を紐解いていく。
一番最初のフロアで見たニュルンベルグ裁判の様子は、とても印象深い。
連合国による裁判ではなく、ドイツ人がドイツ人を裁くための裁判。
今まで口を閉ざしていた犠牲者が、ようやく実際に起きた事を話し始めた。その証人たちの証言を、音声で聞くことができる。
そして、Fritz Bauer フリッツ・バウアー氏の存在についても取り上げられていた。
ナチスから法律を取り戻した男として名高い。

ユダヤ教のシンボルや日常生活の展示

次のフロアでは、ユダヤ教のシンボルとなるものや、宗教、日常生活に関する説明と分裂についての展示。
蝋燭立てには、7本と8本のものがあり、メノラーとハヌッキーヤと呼ばれるそうだ。

トーラーは、羊皮紙に書かれた巻物状の聖典。

タルムードは、ラビによって作り上げられた解説であるため、随時追記がなされてきた事を確かめることができる。

保守派と革新派に分かれて、解釈が異なる事にも言及されていた。
同じユダヤ人同士であっても結婚が許されない大きな溝が生まれたそうだ。
キリスト教とユダヤ教のカップルの婚姻が認められていたのにもかかわらず、同じ宗教内での対立のほうが深くなっていたのだという。

一枚の絵

ユダヤ人が次第に肩身の狭い思いをするようになったのは、芸術の世界にも表れていた。
キリスト教が強い勢力を持つ中では、キリスト教の絵の中にこっそりとユダヤのシンボルを描いたり、キリスト教らしいシンボルを抜いて描かれた絵が紹介されていた。
そんな中、ユダヤの色を濃く出した作品を描いた芸術家がいる。

Moritz Daniel Oppenheim (1800 – 1882), Moses mit den Gesetzestafeln
モーリッツ・オッペンハイマー 律法を持つモーゼ

モーゼのこのような絵は、美術館でよく目にする。
大抵が白い髭の年老いたモーゼであるのに対し、オッペンハイマーはとても若いモーゼを描いた。
ユダヤの教えの通りであれば、モーゼは年老いてから人々を引き連れて行ったわけではなく、若い頃だったのだそうだ。
そして、石碑にもヘブライ語が描かれている。
ひっそりとユダヤの教えの絵を描くのではなく、このような力強い絵を残したことに、彼の信仰の深さを感じる。
彼は、キリスト教が先導していた美術史に、ユダヤの伝統を初めて取り入れた画家なのだという。

ユダヤ教が憎しみの対象になっていく様子

更にはユダヤ教がどのように憎しみの対象となっていったのか、そして、それに対する反発の展示物。
アンチユダヤに対する、アンチを纏めた本。

下の絵は、キリスト教徒の子供にとってはユダヤ教は未知で異文化のものであるが、興味を持って覗きにくるという構図。
その視線や様子から、ユダヤ教がどのように扱われてきたかが分かる。

ユダヤ人迫害を表現したアート作品。
家を明け渡しを強制されたユダヤ人達は、持てるだけの物を家から運び出した。
この不安定に組み合わされた家具は、今にも崩れ落ちそうに見える。
そのバランスは、まさにユダヤ人達の運命がいかに脆く危ない状態であったかを表現しているのではないだろうか。

アンネ・フランクについて

最後のフロアでは、アンネ・フランクの展示物を多く見ることができる。
フランクフルトは、彼女の生まれた街でもあり、写真も多く残っている。
笑顔いっぱいのアンネを見ると、この数年後の彼女の運命を考え、辛い気持ちになる。

彼女の父親が、日記を原稿を書き起こす時に使ったタイプライターが展示されていた。
彼は、あの日記を読んだ時に、どんな思いだったのだろうか。
中央に展示されている黄色い本が、初版だそうだ。 

そして、世界各国の言語に翻訳されたアンネの日記。
日本語版も見つけることができた。
アムステルダムのアンネの家を思い出す。
あの家で、息を潜めて生活していた日々。
アンネの最後の日記は、1944年8月1日で終わっている。
アンネは終戦を迎える前に、ベルゲン・ベルセン強制収容所で亡くなった。

この日記が、なぜこんなにも読まれているのか。
それは、彼女の無邪気な日記と、戦争や迫害という負の存在が、到底結びつかない物として不協和音を奏でるからなのではないかと思う。
その不協和音は、人々の心をざわつかせる。
そして、こんな事は二度と起きてはいけないと、より強く思うのではないだろうか。

私の願い

アンネには、秘密の日記があってもいい。
でもそれは、お友達との楽しい毎日や好きな男の子のこと、時には悩みがあっても、たくさんの嬉しい出来事と将来への夢で埋め尽くされていて欲しかった。
身を潜めて生活することや、他人への不信感、恐怖などを綴って欲しくなかった。
そして、その日記は1944年8月1日以降も、ずっとずっと長く書き続けられるべきものであって欲しかった。
貴重な資料として、このような形で多くの人の手に渡るようなものであって欲しくなかった。

それでも私はまた、これから先も、彼女の日記を読むだろう。
彼女のプライバシーを覗き見るようで、毎回申し訳ない気持ちになる。
それでも私は、彼女の日記を読む。
彼女が聞いていた、アムステルダムの隠れ家の隣にある、教会の鐘の音を思い出しながら。

旅は、楽しいことが目的であるほうがいい。
フランクフルト訪問は、楽しいことが多かった。
しかし、その街だからこそ知る事ができるもの、行くべき価値がある場所がある。
それは時々、痛みを伴う。
たとえ痛みを感じざるを得なくとも、決して目を背けたくないと、私は思う。
それは、申し訳ないと思いながらも、またアンネの日記を読む事にもどこか似ている。

ユダヤについて興味があるかたがいらっしゃったら、ぜひここに足を運んでいただきたい。
最先端の技術が備わっており、各情報をデータとして自宅に持ち帰る事も可能だ。
私が訪れた時と同じように、博物館のかたが熱心に館内の案内をしてくださる事だろう。

今日は日本の終戦記念日。
しかし戦争は、残念ながら過去のものではなく、現在進行形だ。
ここからたった2千キロ先で、今もなお不安な思いを抱えている人々がいる。
そして、故郷を捨てて別の国で生活をせざるを得ない人々、家族と離れ離れで暮らす人も大勢いる。
その人達は今、どのような日記をつけているのだろう。

アンネの書き残したような日記は、世界のどこであっても、これから先ずっと書かれて欲しくない。

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