見出し画像

自転車で本州を縦断する

〇概要

一気に全て完走したわけでもなければ最初から縦断を目指していたわけでもない。何年にもかけて少しずつ走った結果、いつの間にか達成していたといような感じである。高専2年の夏から一人での自転車旅をスタートし、28歳の3月になって最終的にクリアすることができた。縦断は①東京-青森②東京-京都③北九州-倉敷④倉敷-京都の4回に分かれている。残りの休日の日数に追われながらとにかく急いで駆け抜けていくような感じだった。基本的には1人で寂しく漕ぎまくるような旅である。でも、その中で人と話す珍しいタイミングもあったりして、非日常的な孤独の体験の中で強い印象を残していたりもする。

自転車で本州を縦断することはお金と時間さえ持っていれば可能である。実はそんなハードルの高いことでもない。専らあのときの写真を見て当時を思い出しながら記録のようなものとして残しておこうという意図であり他意はない。

小さい頃から親は変わったことばかり企画していた。その最たるものは家族総出で自転車旅に出るというイベントだった。もはやサイクリングと称することが可能な領域を超えていた。東京から京都まで2週間くらいかけて完走したのは最高に狂っていたように思う。その他、一周するシリーズでは琵琶湖、霞ヶ浦、富士五湖など、山道シリーズとしては謎の林道を走ったりするなどしていた。自転車以外には南アルプスや北アルプスなどの縦走登山とかカヌーとかに行っていたかな。


〇どのような方法か?

必ずしも一気にゴールまで辿り着けるわけではない。旅を終わりにするときや途中で再開したいときは輪行という方法を使う。電車に乗せる場合は正式には別途料金が発生するらしいがいままで一度も請求されたことはない。新幹線の場合は旅券を発行するときに特大荷物置場の予約が必要になる。昔は必要なかったので勝手に置かせてもらっていた。けど最近になってシステムが変わった。前輪だけ外して袋に入れることも不可能ではないらしいが、横にして収納するタイプに関してはちょっと難しい。基本的には前輪も後輪も外すことになる。

(大きめの袋での輪行)

宿泊についてはテントを持っていき好きなところで寝る場合、宿泊費をケチってネカフェで寝る場合、ドミトリーで寝る場合、ホテルを取る場合、民宿を取る場合、完全に野宿する場合などがあった。変わった手法として車を利用する方法もある。目的地の駅で駐輪して電車で出発地であり車を停めていた場所に戻る。先ほどの目的地まで車で行き自転車を回収した後に宿へ向かうか場所を変えて車中泊する。手間だがそういう変わった手法をとったこともある。

(ダウンしても適当な路肩で寝れる)

〇東京から青森にかけて(国道4号線)

あれは2012年のこと。高2の夏だった。親に何処か行けと言われたのでお金を貰い旅に出たのだった。当時はスマホも持っていたけれどバッテリーの持ちが悪いためGPSも地図もほとんど使わないように努めていたし、写真を撮ることも可能な限り控えていた。まだ長距離に慣れてなかったし自転車も安物のマウンテンバイクだった。そして荷台も足跡の手作りという代物だった。なんと登山用リュックをその荷台に乗せてロープで括るという素晴らしい仕様である。そんな感じなので2日目から壊れてしまった。いや、というのは正確な物言いではない。サスペンションが効いているので段差などがあるときは荷台がタイヤに接触してしまうという不具合が生じてしまったというのが正確なところだ。段差が来ると予想できるときは、あらかじめ片手で上にあげるよう抑えて対策するのだった。もう無理かと思ったが、それで最後まで走り切ることができたのは奇跡だった。純粋に過重積載…。

旅を始めてすぐ気が付いてしまったことがある。休憩のために入ることができる場所がマクドナルドと吉野家しかないということだ。エアコンが効いている気軽に入れるチェーン店についつい入ってしまう。牛丼とポテトばかり食べることに限界を感じながらも頼らざるを得ないのが現実だった。コンビニにはカップおでんの1つとしてうどんが売られておりキャンペーンで安くなっていた。単体で頼むとかけうどんになってしまうが70円だったので飽きずに食べていた。イートインもまた道中のオアシスとして利用させてもらっていた。道中にはラーメンショップというこの地方ならではのチェーン店をよく見かけた。当時でさえ半分くらいは廃墟になっていた。1回だけ入ったが特筆することもない普通の味だった。

1日目(2012/9/6〜7)は夜の10時くらいに出発した。距離を稼ぐためには涼しい夜に出る必要がある。この作戦はうまく行き、自転車旅の常套手段となった。とにかく埼玉と栃木の国道は面白くない。いま思えばその県の独特な雰囲気があることが理解できるのだけれど当時はあまり、そのような感性はなかった。Twitterで実況中継していたため、栃木に住んでいるフォロワーと小山駅にて合流して少しだけ話して解散したことをよく覚えている。鬼怒川を超えてから急に景色が田舎になった。夜の21時に矢板の道の駅に着いた。いよいよ関東平野の端っこにたどり着いたのだった。23時間も漕ぎ続けて137kmだったのを今でも鮮明に覚えている。道の駅ではテントを張って寝た。

(1日目鬼怒川を越える)

2日目(2012/9/8)は山道を進むことになった。那須高原の緩やかなアップダウンはなかなか良い気分になれる。この日の昼間の記憶はあまりないが代わり映えのしない程よい走りやすい道だったのだと思う。そして、距離が稼げないことに焦りを感じた自分は夜中も走り続けていた。寝るところを探すことも難しく、福島まで辿り着き、マクドナルドで仮眠を取ろうとするが、あの絶妙な大きさの音楽、絶対にわざと大音量にしているに違いない…。そのためなかなかテントを張って寝る場所もなかった。途中でバイパスがあり夜なのもあって自転車は迂回せねばならなかった。迷っていたところを地元のおばさんに助けられ案内してもらった思い出がある。「うちの息子は田舎だし友達がいないのよ。ぜひ友達になってくれ。」と言われたりしたのを覚えている。そしてバイパスにある道の駅も騒々しくパスすることになった。完全に平地になったあたり力尽きた。その日はパチンコの駐車場にテントを張るという酷い有様だった。結局は夜中の3時過ぎまで走っていたので2~3時間しか寝ることが出来なかった。

(2日目矢板からのスタート酷すぎる見た目だ…。)

3日目(2012/9/9)は福島から宮城県に至るまでに峠を越え、そこからまた更に仙台に至るまでにもう1回の峠を越えなければならなかった。2日目に比べてかなりハードな上り坂だった。荷物が重すぎるため、ひたすら押して歩くことで坂を越えたのだった。仙台駅には16時くらいに着いていたと思う。そこでTwitterのフォロワーである東北大の大学院生と連絡を取り合い、待ち合わせをしていた。自分のつぶやきを見てうちに泊まりにおいでと声をかけられていたのだった。その日は院生の知り合いと共にお寿司を奢ってもらったりした。学生自治寮として有名な日就寮は山の上にあった。そこまで自転車を持っていくのも疲れている自分には地味に大変だった。寮費は月々1万2000円と良心的な価格だ。壁の落書きには自分が仲良くしていた高専の先輩の名前があった。

(客室に描いた落書き)

4日目(2012/9/10)は実質そんなに走っていない。40kmくらいだったと思う。昼間は青葉山キャンパスで学食やサークル棟を案内してもらった。そのため出発は午後になった。次の日は古川駅の近くにあるホテルで泊まった。疲れを取るためにしっかりと休息をとった。

(青葉山キャンパスの仮設サークル棟)

5日目(2012/9/11)は古川駅の近くにある高校に通っているフォロワーに会うことになった。一瞬だけ会話をして解散した。この日はひたすら田舎道を走ることになった。アップダウンもそんなに多くなかった印象がある。どのように宿泊したのか正確に思い出せない。写真を見てもイマイチ特定できない。夜の時間の写真も残っていることからも、かなり遅い時間まで寝ないで走り続けたような気がしている。

(フォロワーの通っていた高校)


(本格的に壊れた荷台)

6日目(2012/9/12)は岩手県を走っていた。のどかな山道を行く。おそらくこの旅の中で最も景色がよく、とても気持ちよく走れる区間だったと思う。朝から晩までずっと山道だったはずだ。お昼のあたりには国道4号線の最高地点に着いていた。珍しくアイスクリームを食べている写真が残っていた。この日は確か道の駅「さんのへ」に泊まったのを覚えている。郷土料理などを食べたのも記憶にある。日本の田舎といってイメージするのはこんな場所だと思った。電車も傍に走っている区間があり本当に最高だった。この日のために自転車でここまで頑張ってきたんだと思わせるようなところだった。

(この頃はまだ痩せていた)

7日目(2012/9/13)はお昼過ぎからずっと青森の海沿いを走っていた。とにかく無心だった。もう一週間も走り続けているのでコンビニのイートインで食べるうどんにも本気で飽きていた。マクドナルドではスマホの充電が禁止だったため、コソコソとバレないように盗電をしようと試みたのだけど大して充電されずに店員に怒られてしまうなどしたのも良い思い出だ。青森駅に着いたときには20時を過ぎていた記憶がある。740kmの標識で写真を撮りたかったけれどトラックが駐車しており残念ながらシャッターチャンスを逃してしまった。ビジネスホテルで一泊し次の日の朝に新青森まで移動して、そこから新幹線にて輪行で帰宅した。

(意外と嫌でもない高低差なのどかな道)


(東京まで700kmの表示)


(海の脇にて)

〇東京から京都まで(国道1号線)

高3のときは秋葉街道という林道を走ったので本州縦断という意味での寄与はなかった。本州縦断の続きが始まったのは高専4年の夏休みだった。初めに写真がほとんど残っていないことを宣言しておく。京都で友達のうちに泊めてもらっていたときにアパートの玄関に自転車を置いていて、マウントしていたカメラが盗まれてしまったからだった。嫌がらせなのだろうか。無惨にも思い出は奪い去られてしまったのだった。せめてSDカードだけでも残していってくれれば良かったのに…。本当にそれだけが残念で仕方ない。

夏休み突然、京都に行くことを思い立った。これがロードバイクを使った初めての旅となった。本当は新幹線で行って、色んな知り合いに会いたかったのだけど、お金のない自分は親にお金を出させ納得させるためには自転車で旅をするという口実が必要だった。とはいえ、自分自身は自転車が好きだったし、京都までの距離感を知りたいという動機もあった。チャリ旅をすれば資金をくれるとは既に知っていた。うちの親は超アウトドア派なのである。小さい頃に東京から京都まで走ったけれど、あれは親の力も大きいので自力で再チャレンジしたかったのも理由として大きい。3日間で京都までたどり着くことが出来たのは当時の自分でもびっくりだった。

1日目(2014/9/10)に急に準備を始めて22時過ぎくらいに家を出発した。高専は3学期制ではないので、夏休みが普通の高校生とは1ヶ月ほどずれていた。だから、真夏というより残暑の厳しい夏の終わり9月とかだった。まあ、長距離を走るには悪くない季節だったように思う。東京を出発してから夜中はずっと走っていた。箱根に着いたときには、もう日は既に登っており、芦ノ湖の時点で時間は8:30をまわっていた記憶がある。ヘトヘトになりながら最後の峠を越えようとしたとき、1人のマウンテンバイクのお兄さんに抜かされることになる。なんという屈辱…。自分はロードバイクなのに、登りで抜かされるとは何事…。その先にある道の駅で休んでいたその人と少しだけお話しした。「ロードだけど遅いじゃん?」ってバカにされたのだった。「じゃあお先に。」とその人は行ってしまった。峠を越えた後は長い下り道だった。降り切った先、三島と沼津も順調に、富士川を越えて薩埵峠のその先へ進んでいった。夕方16時くらいになったときには、清水あたりを走っていた。夜通し走っていたこともあって、そろそろ宿に入って寝ようかと考えていた。そのとき、ちょうど後ろから声をかけられた。箱根の坂で抜かされた人だった。少し雑談をした後、「一緒に行こうよ」と声をかけてくれた。自分はロードバイク、相手はマウンテンだったのもあって、疲労困憊だった自分でもかろうじてついていくことができたのだった。結果、元気すぎるその人と一緒に暗闇の中を走り続けることになる。ここまできたら意地だった。途中でバイバイするのも悲しいし、死にそうだったし、もう無理という言葉が喉まで出かかっていたけど、じゃあいま脱落したとして、どこで寝るんだ?こんな山道で…。という状況だった。最初からその人は掛川まで行くと宣言していた。とはいえ、掛川がそんなに遠いとは知らない自分は、いつになったら着くのだろうと思いながら食らいついていくしかなかった。まさか、宇津谷峠とか金谷の峠も越えるとは想定していなかった。そんなかんやで掛川に着いたのは22時にはなっていたと思う。もう丸々24時間は走り続けていた。手元のサイクルメーターをよく見たら250キロになっていた。信じ難いことに、24時間ずっと自転車で走り続けて1日で250キロも移動していたのだった。「静岡の姉ちゃんは可愛いんだ。前に掛川のキャバクラに行ったことがあってまた行きたくてさ」と言うお兄さんに着いて行き2人でお店に入った。汗だくになっている状態でシャワーすら浴びていないのに大丈夫かなと思いつつ席に着いた。当時の自分は他人と話し慣れていないし、夜のお店は初めてだし、汗臭いし、申し訳ないという気持ちでいっぱいになっており、まともに話ができなかったことだけはよく覚えている。このお兄さんはそんなに掛川のキャバクラに行きたかったのか…。前に行った掛川のキャバクラに行くという機会を逃したくなかったのか、今となっては分からない。その後、お店を出た自分はすぐ気持ち悪くなり吐くことになる。キャバクラで水を飲みすぎたのが原因だった。未成年だからお酒なども飲むこともなかったし、何より塩分が不足していたのだと思う。当時は話題になっていたのもあって「デング熱かと思ったよ〜。」と言われたのを覚えている。テントを持っていた自分は駅前で寝ることにした。お兄さんはそこら辺のベンチで横になっていた。そんな中、急にぐっすりと寝ている途中で雨が降り始めてきた。雨宿りをしようにも他に場所はないしお兄さんも居なくなっていた。何も考えず避難するために入った居酒屋の店員にも「朝までやっていない」と言われてしまったため、もう少し遠くにあったファミレスに入りそこで気絶して朝までやり過ごした。

2日目(2014/9/11)は浜名湖まで一緒に走ってそこで別れることになった。しかしその後すぐ自転車がパンクしてしまった。浜名湖のあたりは路面状況が悪すぎた。当時、自転車のパンク修理の方法は知っていたが、慣れていなかったというのもあって、空気を入れる際に色々と失敗してしまった。自転車やまで押して歩いて行き直してもらうことになった。浜名湖から名古屋までの間には峠がないためアップダウンはなく、であるが故に面白味のない道を走ることになる。名古屋に着いた頃にはもう日が暮れていた。温泉施設で休憩してから隣にあるネットカフェで睡眠をとった。

3日目(2014/9/12)は出発してすぐ鈴鹿峠に差し掛かった。箱根の峠に次ぐ難関である。とにかく長い登りだった。鈴鹿峠を降ってからは滋賀の殺風景な田舎道をひたすら走る。何も面白みがなく田園風景が広がっている平地の国道を走るだけだ。そして、京都へ入るためにはちょっとしたアップダウンがある。大津のあたりや東山などは地味に面倒だったりする。そして夕方の16時過ぎには京都に着いてしまった。3日でたどり着くとも思っていなかったので自分の中で東京と京都の距離感がグッと縮まったのだった。その日は学森舎というシェアハウスに泊めてもらうことになる。リビングで寝たため結局は夜中の3時まで起きていた。4日目は自転車で京都を観光した。南禅寺の水路閣、嵐山、京都大学の吉田寮を見に行くなどして1日を終えた。その日はファクトリー京都というシェアハウスに泊めてもらった。やはりシェアハウスのゲスト客というのはリビングに布団を敷いて寝るものなのだ。結局は遅くまで起きる運命にある。5日目は同志社大学のラウンジで知り合いと落ち合うことになる。その日はその知り合いと共にTwitterのフォロワーの家に泊めてもらうことになった。次の日は特にすることもなかったので新幹線で輪行し東京へ戻った。宿代は全く払わずに京都に滞在することになった。結局はトータルで5泊6日の旅であったのに宿代として支払ったのは名古屋のネットカフェの1800円だけだった。かなり節約した旅だった。こんなこと今では出来ないだろうな…。体力お化けすぎる。

(道中で写真が唯一残っている鈴鹿峠の宿場町)


(京都大学の吉田寮にはエミューがいた)

〇北九州から倉敷まで


1日目(2016/8/11)は15時くらいに家を出発したことになっている。写真のタイムスタンプを見る限りでは…。珍しい時間にスタートさせるなと思うかもしれないけれど、これは船の出発時間に合わせてのことだった。16時には有明に着き搭乗時間を待っていた。乗船中だけでなく乗るまでにも待ち時間がかかる。いつもとは異なりのんびりスタートだ。実際に乗り込んだときには18:30になっていた。さらに30分以上経ってからの出発…。

自分に与えられたのは2段ベッドの上)


(恐竜橋の独特なフォルム…。)

2日目(2016/8/12)はずっと船の中だった。船の中は想像以上に暇すぎて退屈してしまった。スマホの電波も届くことはない。船内では当然ながら食事を売っているわけだけれどインスタントみたいなやつだった。3日目(2016/8/13)の朝になってようやく新門司港に着いたのだった。時間は5:30頃…。当初予定していた北九州には何らかの影響でたどり着けなかった。行き先変更で降ろされたのが新門司港だった。本州に渡る前に少し寄り道をしようと考えてわざわざ小倉まで大きな寄り道をすることになる。北九州工業高専の前を通り過ぎて、鉄道博物館を見学した後、海峡にたどり着いた頃にはお昼になっていた。本州へ至る橋は高速道路でしか繋がっていないため歩行者と自転車はエレベータで地下まで下がり地下道を歩くことになる。日本全国いろんな所に行ったけれど海峡の地下道は初めてだった。渡った先にある海鮮市場ではウニ丼を食べることができて初日からお腹が幸せになっていた。途中で休んでいたコンビニでは高校生少しだけ話をした。どうやらチームに所属しているらしい。そんなガチな高校生もいるのだと思うと負けていられない。この日はとにかく暑かったのを覚えている。初日というのは体調不良に見舞われがちな傾向にある。普段ろくに運動をしているわけでもないのに急に自転車に乗って死ぬほど走るのだから当然である。この日も例によって吐いてしまった。何もお腹に残っていなくて水しか出てこない。体内の塩分濃度が下がっているにも関わらず水分だけを摂取するので低カリウム血糖にでもなっているのだろうか。何とか山口駅まで辿り着くところまで頑張り、ビジネスホテルに泊まり映画を見てから寝たのだった。

(歩行者用の関門トンネルを押して歩く)


(下関から眺める関門海峡)

4日目(2016/8/14)は出発してすぐSLが走っているのを見かけるなどした。そしてしばらく走った後、トンネルを出た瞬間にパンクしてしまった。トンネルの中で車を壁に擦ったことのある自分にはよく分かる。暗くて壁との距離が分かりにくいので微妙な事故を起こしがちだ。よくミラーとかその他いろいろな破片が落ちているのだ。たぶん何かを踏んでしまったのだと思う。修理技術など持ち合わせていないけれど応急処置くらいはできる。チョチョイのちょいで直して再開した。夕方あたり徳山高専の脇を通った。校舎は少しだけ山に向かって登ったところにあった。この日も夜まで走って真っ暗な錦帯橋の脇のホテルに泊まれないか聞いてみたが断られてしまった。せっかく錦帯橋に来たのだからと思って柄にもなく自撮りをしてみたのだけれど、いま見返すと疲れすぎている顔が写っているやばい写真になってしまった。ひどい顔なのでここには載せないことにしよう。どうしようかと思っていたところ、ネットカフェがあったのでそこで仮眠を取ることにした。ガレージというか倉庫を改装した簡易的な作りになっており、隣の人がマウスを無限にカチカチしている音が気になるせいで休むことができなかった。この人はいったいぜんたいクッキークラッカーでもやっているのか?ただ、シャワーを浴びることができたのは良かった。気も休まらなかったので早朝に出発したのだった。


(タイヤを外してチューブを変えて空気を入れる)


(こんなのどかな景色です)

5日目(2016/8/15)は出発してからすぐ宮島への船着場を通りすぎるなどして、お昼あたりには広島にたどり着いた。ご飯はお好み村なる場所でお好み焼きを食べた。このビル1階から2階までたくさんのお好み焼き屋さんが入っていた。混んでいたので2階の一番奥にあるお店に入った。その後、原爆ドームを訪れたが、前には人だかりが出来ていた。そうだ終戦の日が近いのか。あぶない団体もひしめいていた。こういう日には集うものである。気持ちの良い工業地帯の海沿いを走っていた。脇には電車も走っていた。しばらくすると同じくロードバイクに乗っている親子を見かけた。ちょうど港に入って行くところだった。なんだろう、疲れているし自分も休憩がてら寄っていくかとフラっと入っていた。そしたら、向こうの人に、もうすぐ船が出るから早くしなと言われ、考える暇もなくチケットを買ってしまった。あの親子と同じ行き先だ。船に乗っている間にだんだん不安になってきた。この船ってどこに行くのだろう。帰ってこれない場所だったらヤバいかもしれない…。でもチケットそんなに高くなかったし大丈夫でしょ…。その不安も大きくなる前に船は案外すぐ到着するのだった。着いたのは江田島だった。発着場には艦これっぽい萌えキャラが描かれていた。あとから元自衛官の人に聞いた話だ。ここは海上自衛隊に入った人が必ず半年間の研修を受ける施設がある有名な島らしい。この島は面白かった。造船ではなく解体をしているような施設があったりもした。瀬戸内に来たと強く実感するような雰囲気だった。やっと国道に戻ってきたぜと思ったら呉工業高専があった。3日連続で高専を見かけていることになる。高専というのは開設当初、各県に1つ設置される計画であった。地方に行き「高専がある!」と思うといつもだいたい工業地帯の脇である。全国の高専をめぐる旅とかしても面白いのかもしれない。55キャンパスしかないからコンプリートもそこまで難しくないだろう。いくつかの島を渡って国道に戻るまでの間、自分の大好きなループ橋もあってかなり満喫したのだった。この日は、とびしま海道の最初の島でテントを張って寝ることになる。キャンプ場らしいのだけれど受付時間を過ぎていたためお金を払うことなく勝手に泊まってしまった。

(江田島からの眺め)
(ループ橋)
(テントの残骸)

6日目(2016/8/16)はひたすら瀬戸内の島々を走っていた。とびしま海道は基本的に橋で繋がっているわけだけれど、ある島だけ船で渡る必要があった。船の本数もそんな多いわけではないだろうからタイミング良く辿り着けて良かった。30分くらい待って出発してくれた。途中からとびしま海道はしまなみ海道に変わる。島の行脚は夕方あたりに終え尾道にたどり着いた頃には夕方になっていた。夜も当然のように国道を走っていたわけなのだけど、福山市に着いたあたりでパンクして修理をするための空気入れがなかったため、ネットカフェに泊まり次の日にお店に直しに行った自転車は駅に停めっぱなしにして、空気入れだけ電車で買いに行った。

(橋の上より)
(多々羅大橋にて)

7日目(2016/8/17)はパンクの修理をして、その日のお昼あたりかた旅を再開させたのだけれど、またすぐ夕方あたりにパンクすることになる。これは参った。もう心も挫けてしまっていたため、ここで旅を終えることを決心した。

(歩道もない国道の脇でパンク修理をする)

ひとまず仕方ないので倉敷まで走ってそこで中断することになった。美観地区で酔っ払いのサラリーマンにポケモンがいるという情報を聞きアプリを立ち上げるなどして雑談をしたのを覚えている。その日は高梁川の上流の公園にテントを張って寝ることにした。8日目(2016/8/18)は人が話す声で目が覚めた。テントから顔を出すとゲートボールをしているシニアがいた。自分はコースのど真ん中にいたのだった。「慌てなくて大丈夫だよ、まだ寝てて。」と言ってもらえたものの、流石にすぐ撤収した。

(テントを張っていた広場)

このあと自分は京都で遊ぶつもりでいた。だから、自転車ははっきり言って邪魔だった。輪行するのも面倒だ。京都は自転車で観光するのが便利だと知っていたものの、別に観光しに行くわけではないので。そこで取った手段はカンガルー便で運んでもらうというものだった。向こうの方は困っていた。けれど、傷がついても訴えたりとかしませんという書類にサインをして無理やりお願いすることになった。9日目(2016/8/19)は身軽になって京都まで新幹線でひとっ飛びだった。京都で遊ぶ予定だった友達にドタキャンされたので1人で梅小路の鉄道博物館に行くなどした記憶がある。その後、ファクトリー京都というシェアハウスのクロージングパーティーに参加させてもらい、床で布団も敷かずに朝まで気絶するように朝を迎えた。10日目(2016/8/20)は前の年に泊まらせてもらったサクラ荘というシェアハウスで1日を過ごすことになる。当時は界隈の中でサークルクラッシュ同好会が熱かった…。彼らが運営しているからサクラ荘という名前なのでしょうきっと。次の日は、いまはなき京都タワーの大浴場に入って帰途についた。


〇倉敷から京都まで

本州縦断はしばらくご無沙汰していた。自転車に乗る機会もなかった。というのも自分は1人で自転車を漕ぐよりも、旅先でシェアハウスに泊まって、そこを拠点にいろんな友達に会いまくるという旅行の方が楽しかったからだ。とにかく人に会って話をすることばかりだった。でも、色々あって誰かと縁が切れてしまうことに対して虚しさを覚えるようになって一気にうんざりしてしまった。そんな中、ちょうど異動のタイミングで3月の終わりに時間ができたので、これはチャンスだと思った。社会人になり、あまりの忙しさに遠出することもできなくなっていたし、仕事が溜まり過ぎて夏休みに旅行に出ることが怖くなってもいた。ここを逃すと自転車に乗ることはないな…。今しかない…。

(峠から水島コンビナートを見下ろす)

新幹線で岡山駅に到着し前泊をしてゲストハウスにいたのだけど、1日目(2023/3/27)はそこを出発して倉敷の海沿いを目指した。修学旅行でここに来たんだよな、見学したのはどこの工場だっけ思いながら見下ろすなどしていた。瀬戸大橋の脇には名曲喫茶があったため寄ってみたら想像以上に良い空間だった。

(名曲喫茶でコーヒーを飲む)

この後、鉄道を埋め立てた道を走ったりジーンズストリートに寄ったりなどしていた。風のない海沿いは気持ちが良いものだ。お昼あたりに泊まる場所を予約したものの、想像以上にたどり着くのに時間がかかり夜になってしまった。バイパスを迂回したり、大きな道がないなどの事情で迷いながら、なんとか21時に辿り着くことができた。ある種の昭和的な香りの強いペンションだった。

2日目(2023/3/28)の朝はそこを運営しているおじさんが見送ってくれた。若い頃は自転車に乗っていたらしい。この先に建物などが水没している場所があると教えてくれた。昭和のバブル時代にちょっとしたリゾート地としてペンションやテニス場などがあったそうだ。地元の人が運営していたらしい。堤の栓を開けたから海水が入り込んでいるのかと思ったら逆らしい。「栓を閉めてしまったので山からの水が溜まってしまった。今ではポンプもイカれて水が排出できない。」というのが真相らしい。この日は少々のアップダウンに苦しめられながら姫路まで辿り着きゲストハウスに泊まった。

(昭和を感じるぜ…。)


(分かるだろうか…。軽自動車が水没している。)


(海が近い道だ)

3日目(2023/3/29)は海沿いではあれど全く海が見えない詰まらない普通の道を走っていた。明石海峡大橋だけは橋桁を見学することができた。

(明石海峡大橋にて)

この日は六甲駅で高専時代の同級生と落ちあって、寮に泊まらせてもらうことになった。狭い部屋には手作りのロフトベッドがあった。少しでも動くと揺れるのだけれど味を感じた。3Dプリンタで作ったホルダ、専門書、画面に表示されるコードが院生としての限界生活を強く感じさせた。電車で中華街に行ったり海沿いを散歩するなどしていた。自分が寝ている間に彼は朝までずっと研究をしていた。

(手作りのロフト…)

4日目(2023/3/30)は彼に神戸大学を案内してもらってから出発したのだった。十三駅のホームにある立ち食い蕎麦屋をおすすめされていたので、そこのポテそばなるもの食し、551の肉まんをホームで頬張り、そこから淀川を遡上することになる。それにしても13駅ってすごい名前だ。土手を走っている途中でスポークが折れてしまった。こんなの初めてだった。京都の新京極にたどり着いた頃にはタイヤも歪んでおり、前後輪ともに交換する羽目になってしまった。かなりの出費で参ってしまった。その日はサクラ荘の知り合いの部屋に泊めてもらうなどした。5日目(2023/3/31)は友達と合流して八坂神社を見学したいり、適当にふらついたり、夜はコンカフェとか祇園の或いは「」というバーに行くなどしてその人のうちに泊めてもらった。6日目(2023/4/1)はお昼までまた前日の友達とは別の友人と喫茶店巡りをしたりスイパラなるお店でスイーツを食べまくってから帰途につくことになった。

(#春から神戸大生)


(淀川の土手)


(折れたスポーク)

〇まとめ

このようにして振り返ることで、意外と人と会っていることが分かった。孤独と交流が両方ともあるのが自分の自転車旅だったかもしれない。これもSNSあってこそ。そして、Googleマップがなければ、ここまで充実していなかった。技術の進歩に感謝するしかない。次もし自転車を極めるなら1周シリーズになるのだろうか…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?