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非日常、将来の想定、誰かとの共同性、往来すること

○シェアハウスからのひとり暮らし

ここではシェアハウスに6ヶ月くらい住んだこと、その後にひとり暮らしを始めた経緯、雑感を述べていこうかと思う。まあ、言いたいことを全部Twitterのつぶやきみたいに垂れ流しているだけですが…。


○共同生活と巻き込まれ

28歳にもなって初めてひとり暮らしを経験することになった。ちょうどこの記事を書いている8月上旬からすれば今年の5月から3ヶ月くらい経ったことになる。生活スタイルが大きく変わって嬉しかったことは、生活において絶対的な決定権を持ったことではないだろうか。自分のタイミングで好きなように寝て起きて食べる。そのおかげか3ヶ月で簡単に8キロも痩せてしまった。見方によってはこれ、自分自身の身体をコントロールできるようになったということなのかもしれない。全て自分のしたいようにして大丈夫だという安心感というか心地よさを味わっている。ただ、ひとり暮らしワンルーム空間の中での非日常の存在のしなさについては多少気になる。孤独に飽きたとき外に自発的に共同性を獲得しに行く必要性がある。あまりに孤独すぎるのも健康に良くないのだろうし。物理的な空間として、嫌でも巻き込まれる要素がない。ひとりでいることの方が基本的には楽なはずなのだけど…。

当たり前すぎるかもしれないけれど、共同生活との大きな違いは巻き込まれが発生するか否かということだ。実家は広いし家事もしないで済むし享受できるメリットが多い。でも家族への貢献が義務付けられているのがストレスだった。所用の手伝いとか家の補修とか…。最終的には家族関係の様子が変化してしまったことでデメリットが大きくなり実家には居れなくなってしまった。逆にシェアハウスはストレスフリーであったが、良くも悪くも巻き込まれが多かったのを覚えている。何となくリビングに集まって、そのまま鍋をしたり、手助けを必要とする人がいたらアドバイスをしたり、今回のように突発的に文フリに参加するよと言い始めたり…。そして、家に帰れば大体お米が炊けている状態になっていたのが嬉しかった。カンパから出されているお米代、大きな炊飯器、食欲を持った複数の人間、炊いてくれる人々、お米に感謝する心。そのような悪魔的な合体のおかげで体重が増加していったのは言うまでもない。

○生活を構成する3つの要素

非日常、将来の想定、誰かとの共同性、この3つが生活を考える上で意外とポイントとなる事項かもしれない。自分がシェハウスに住むことを選んだのも、いま考えればその要素の影響が強い。住人にとっては日常そのものなのだけれど、シェアハウスや学生寮をゲストとしてたくさん巡ってきた自分にとって魅力的で非日常が多く存在する場所だった。寂しがり屋の自分には帰ったら誰かがリビングにいる状態がありがたかった。それに当時の自分は狂ったように誰かとの関わりを求めていたような所があった。とにかく多くの人と仲良くしたかった。半年後には別の職場に行くことがほぼ確定的だったので、それに合わせてひとり暮らしをするつもりでいた。色々事情があったから希望すれば同じ職場に残れる可能性がそれなりに高かったのだけれど、自分自身の将来を考えたとき色々と思うこともあり、異動の希望を出した。積極的に望んだわけではないのだけれど、色々な制約の中でそう判断をした。また、その半年ですら我慢ならないほど実家にいることが厳しかったから一時的に避難できる場所を探していた。仕事も忙しいし歌舞伎町で夜遅くまで飲み歩くことも多いから独りでゆったりまったり過ごす素敵なお部屋ライフというものは想定していなかった。居住空間に生活というものを必要としていないため、寝る場所さえ確保されていれば、あとは狭かろうが何でも良かった。

学校現場でもその3つの要素はかなり意識する。体育祭や文化祭という非日常あってこその学校生活だなと思う。年間行事予定表を考えるときには意図的にイレギュラーをバランスよく配置していく。非日常は起点にもなるし1つの終点でもある。目標があった方が生徒のモチベーションにもなるし、日常的な活動に一生懸命になれるかは行事があるかどうかにかかっている。集団で動けるか、班行動として自由にさせられるか、どういう人を育てるかの目標、その1つの結果が現れてくるのが例えば修学旅行というイベントである。信頼関係を教員と生徒の間でお互いに築くことが出来ているかが問われている。逆にいえば、どのような生徒を育てていきたいかを考えながら修学旅行の計画を1年生の時期から組み立てていく事になる。そして、自分は工業高校に勤めているから、就職というのは大事な原動力である。生活指導や身だしなみ指導の基準は伝統的な工業高校においては、その格好のまま就職面接に臨むことが可能か?という生徒への問いかけとして現れている。就職を意識した瞬間に彼らの意識と行動が変わるのを見てきている。資格取得に励んだり、部活動に参加したり、学校行事に積極的になること、これが将来といま現在を繋いでいるし、これまで真面目になれなかった過去の自分対する供養となっている。もちろん、卒業する最後まで就職を想定できない生徒も中にはいるけれども…。それは当たり前のように獲得すべきだったはずの何らかの想像力不足によるものだと思っている。そのようにして、日常は非日常への想定の中で生きられ、未来を想定することのみが生活と日常を活性化される。また、具体的な学校生活の実現には共同性が必要となる。

○いまの部屋を選んだ経緯

新生活のスタートは物件探しから始まっていた。と言いたいところだが、色々な生活空間を見学してきた経験は自分にとって、それなりの影響を与えていたかもしれない。友達と遊ぶとなったときに家にお邪魔することもあるし、旅行に行くときは泊めてもらうことが多かった。人間性がモロに出ているというのもそうなのだけど、自分がどのような人間になりたいかという想定によって生活の方向性が変わってくるということを強く意識させられた。単なる思い出話になってしまうから具体的に何を見てきたかは割愛するにしても…。

それにしても、なかなか物件探しを始めることができなかった。異動の内示が遅いからというのが根本的な理由でもあるが、いざ次の職場の場所が判明したときに母親の別居離婚に伴う引越しの手伝いさせられたり、同時に職場に残された荷物も実家に一時的に運ぶという作業もする必要もあった。実際に足を動かしてひたすら不動産屋を巡るよりも、スーモで検索した方がぜんぜん良かったということが後から分かった。なんたる情報戦…。デジタル時代にアナログ根性を持ち込むのはスマートではない。

次の職場は東京の外れの方にあるから、それよりも都会に近くて40分程度で通える場所に引っ越そうと思った。異動の激しい仕事なので、東京の外れに住むのも勇気もなかった。そして川を越えた先の地は文化的にも地理的にもハードルが高かった。妥協案として日暮里だったら一本で通えて便利だからその周辺で考えていた。山手線が最寄駅なのも立地的には良いと思った。最初に候補となったのは谷中商店街の脇にある2つの物件で、見学したところ非常に住みやすそうで価格も安いし綺麗だった。谷根千は魅力的な地域だし、谷中に住んでいる友達がいるし、行けば誰かしら知り合いがいるバーもあった。でも最終的には行きつけの銭湯から徒歩30秒のロフト付き物件に決めた。谷中はいつでも遊びに行けると思ったため…。いまでも谷中にはよく散歩しにいくけれど、結局のところふらっと通り過ぎる感じだ。住んでみると鶯谷という街も素晴らしいところで、自由気ままに生活している。肉のハナマサも業務スーパーも近いし山手線まで歩いて3分で行ける。自分自身が生活する場所ではあるけれど、誰かが来たらビックリさせたいと思って人工草、ネオン管LED、テープLED、壁写のプロジェクタなどを設置してみた。まだ友達は1人しか呼んでないし、これからも呼ぶ機会なんて少ないのだろうけど、それは構わない。日常には遊び心が大事だからだ。


○3つの要素が生活の中で往来する

テーマが「生活」であると言われても、正直あまりピンと来ない。しかし、改めて思いを馳せてみた、この「生活」という言葉に、ひとまず自分はさまざまな反復と往来を見ている。日常と非日常、愛すべき孤独と誰かと一緒にいたい瞬間、ふと思い出す過去と描く将来への希望、これらを行き来することで、ひとまず、とりあえず、具体的な生活の形が定まるのだろうということだ。

生活は日常を構成している。そして日常とは生活の安定的な繰り返しのことである。生活は将来への希望やありたい自分像に裏付けられている。経験したいことへの希望に強く影響されるだろうし、居住空間はなりたいと思った自分になるための基地である。そこまで強く意識していなくても、我々は生きている限り、いやがおうにも生活様式を選択せざるを得ない。どこかに未来の想定が紛れ込んでくる。

逆に生活様式が変わるたびにその環境に応じて周囲のものに影響されて目指すべきビジョンが変わってくる場合もある。人間は社会に規定づけられるとともに、逆に自分が新たな選択肢作り出してもいるのだという視点はそのまま生活にも持ち込んで構わないだろう。その相互的なプロセスを繰り返すことで人間は変化していく。その中でも一貫し続けるものが見えてくるなら、それこそ自分自身を永遠と縛り付けているものでもあり、またそれ故に否定できない何かであり、真剣になって検討するに値する事項なのだと思われる。

そして、たとえひとり暮らしをして生活における決定権が全て自分自身に委任されているとしても、社会的に活動しているのであればそれは制約付きの自由であり、何らかの共同性から逃れられない。完全に1人になりたくて孤独を求めても、現実的にどれほどまでに可能だろうか。いかようにしても最終的には関係なき関係という関係性が発生してしまうようにも思える。このような程度問題に過ぎないことを考えるよりは、どのような共同性を求めて、いかなる関係性が可能か模索するしかないのは間違いない。

安定的に過ごせている現在、ひとまずは満足している。でも、どこかのタイミングでこの調和が崩れたとき、方向性を再検討すべきこともあるのだろう。仕事が忙しくなって重要視していたルーティーンを続ける余裕がなく途絶えるとか、思っていたのとは違う状況になってきたとか、いい人が出てきて結婚を検討するとか、遠方に住んでいる兄弟が東京に戻ってきてルームシェアでもしようと提案するとか、建物の老朽化で引っ越しを余儀なくされるとか、人生には色々と想定していないこともある。

想像が付かないけどその日はいつか来るのだろう。心の安寧、ゆとり、楽しい仲間、標準体重…。いま欲している生活は、かつての自分が望んだものとは違う。生活を送る度にふとした瞬間に過去を想起してしまう。何か直近のことに追い詰められる以外は昔のことを思い出しては懐かしんでしまう。自分はそういう人間なのだ。だから、何か予定を入れまくった方が良いと思っていた。純粋な延命措置としての非日常を設定する、これしか安定できる方法がなかった。でも、その手段だけに頼らなくても可能な限りで大丈夫だと、それよりも安定した日常だけでもある程度の満足を得られるようになった。それは年齢的なものなのかもしれないし、たまたまそうなれただけなのかもしれない。しかし変化というものは必然なのだ。最近は人間と関わるのが疲れてSNSを辞めた。LINEとnoteだけが続いている。かつてTwitterを辞めるということは自分自身の自由な人間関係と可能性を断つことだと思っていた。多くの人と知り合って実際に会って影響を受けてきた。いまでも若干はそう感じる。ただ、社会人として、学生のような窮屈さがない自分にとって、思っていたよりも不要なものだったのかもしれない。何はともあれ万物は流転するということだ。それで良い。


○共同性についての検討

どのような密度で人間関係を展開していくのか、というのは3つの要素の中で最も大きな問題ではないだろうか。他者との適切な距離感の構築には浅く多くが望ましいのか、それとも深く長くが良いのか、はたまた…。シェアハウスをするなら最初から友達だった人よりも元々知らなかった人の方が良いという住人がいたのを覚えている。必ずしも親密であることだけが重要なのではなく、自分と誰かとの間のリズム感が重要なのだろう。それにしても、閉じこもることも実は共同性を獲得する方法の1つになり得るだろうと最近は思っている。

離婚した両親を見ていて、表面に現れていること以上に根本的なすれ違いが起きているのは良くわかった。そこに何らかの強い期待があったからに違いないと思っている。頑張って育ててくれたのは感謝するけれど、それは何らかの将来への希望や想定に基づくものであったのだろう。そんなかんやで、生活や幸せや他者に対する期待の過剰さは不要だと思うようになった。家族、恋人、配偶者というほどの親密な他者ではなくても他者に対する過剰さはどのような形でも生じてしまう。すれ違って、それ以降ずっと会わなくなったら寂しいけど別になんら問題のないくらいの距離感がちょうど良くて、それでもお互いに気にはしているみたいな、それが理想かもしれない。

実はシェアハウスを出る頃には色々な人間関係が嫌になってしまっていたのも大きい。そこでの人間関係も良好だったし、住人のことはみんな大好きだったけれど、それとは関係なく外で色々あった。いま思えば自分の抱いていた他者への過剰さが原因なのかもしれない。誰とも関わりたくなくなってきた。そう思ったときにモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』を改めて手に取った。そこで語られているのは、共同体が解体された後にこそ共同性をそこに初めて見出すことが可能であるとか、孤独の中からその経験を迂遠に語ることしかできないとか、過剰さと不可能性を知って、それを前提として、それでも他者と関係していくには…という問いを先鋭的なまでに深めている。他者とは一瞬の交差しか有りえず、不断に解体され続ける関係性なき関係性という前提の中で「死んだように生きる。死を生きる。」とか、そんなことが書かれているので気になった人は読んでみてほしい。結構ヒントがあると思う。

自分自身が何を求めているのか、何に満足する性格なのか。自分がこれまで見てきたのは①おひとり様で満足タイプ②集団でワイワイするのが大好きなタイプ③みんなで楽しくやるのは引退して配偶者や恋人との生活を重視するタイプの3類型に分かれるかなと思う。①と②をバランスよく楽しめると良いなと思う。具体的に最も素晴らしい選択肢は「シェアハウスの近くにひとり暮らしをしてたまに遊びにいく程度の距離感を保つ」だという結論に至っている。程よい距離感と巻き込まれの発生を意識的でも無意識的でも作っていけるシェアハウスのポテンシャルは高い。別に実際に住んでなくても良いのだ。

閉じこもりと交流が分離できない、それが両輪である活動に身を投じるというのも1つの手かもしれない。例えば同人活動、読書会、シェアハウスが該当するのではないかと思われる。ギデンスが「純粋な関係性」と呼んでいるものに付随しているであろう「関係解消の不安」と「関係構築のための負担がもたらす不満」という2つの問題を巧妙に避けているように見える。同人活動や読書会は自分の好きなことをそれぞれが自分で日常的に行っているけれど、その成果で他者と繋がれる非日常としてのイベントというものが定期的に設定されるような文化である。逆にそのイベントが1人で行う日常的な活動を高める効果もある。シェアハウスでは全員がそれぞれの部屋で過ごしているが、空間としてリビングで繋がることができる。少なくとも食事のときだけは集まって交流することになる。また、鍋パとか季節のイベントを開催して誰でも入れる日を設けることで定期的に開かれた空間になる。

色々な共同性の在り方が存在しているけれど、引きこもることも共同性のうちに含まれるのだという前提で、のんびりやりたいように模索していきたいと思う。たまには何か誘ってみてほしい。気の向くままに参加するから。何事も無理のない範囲で楽しめば良いのだと思う。頑張りすぎても仕方ない。それ自体を放棄することによってでしか成立しない概念を執拗に追い求めても無意味なのだ。


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