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主体と客体の消失がコミュニケーションの本質なのだとしたら

主体と客体の消失がコミュニケーションの本質であるとするならば、贈与と自己の究極なまでの放棄がそれに値するらしい。しかし我々はその瞬間的な発露が可能でも持続は不可能である枠組みの中で生きざるを得ないというのが現実だ。いっそ資本主義に身を委ねてしまうのも戦略のひとつなのかもしれない。いや、戦略であることも積極的に捨てていくべきだな。


来るべき瞬間への塹壕戦でもなく、ただ流れるように生きる。脱力による力の蓄え…。主体と客体の消失って、相手が何者なのか分からないし自分自身の存在も相手から規定されていない浮いた状態であれど、相手に対してなんら期待することもせずエネルギーを注ぐことなのだと思う。蓄えた力の解放は日常の脱力に支えられるものなのかもしれない。


資本主義の隙間に、少しだけ生まれるコミュニケーションを見てとるだけしか我々にはやりようがない。合理性を排除したような時間的にも空間的にも限られた場所で、ただ一回のみのはじめての経験として。それこそ差異と反復なのかもしれない。コミュニケーションは最初は差異なのだけど、反復するに従って主体と客体がたち現れてしまう。むしろ強い印象を残す体験により二度とコミュニケーションが取れなくなってしまう。


未知なる自分自身の発見という強い期待を抱いて他者と関わることには無理がある。コミュニケーションは偶発的にしか生じないのだから求めても仕方がないものだと思う。裏切られ続ける経験にしかなり得ない。それ自体に背く放棄によってでしか、然るべきものとならない概念であるならば、流されるままに待つしかない。無意味に生み出される言葉との戯れまでは許されるにしても。


人間を意図してシステムの中に組み入れ反復させようとする資本主義的なグロデスクさから逃れつつも、その隙間にあり得る偶然性だけを探す絶望的な、待つという営みと瞬間を捉えるという試みを志向できないかとは思う。でもせめて、その程度しか出来ることがないのだと思う。


つかみどころのない共同体の記憶も、忘却の彼方へと消えそうな言語化できないあの通じ合いも、語ることが不可能だからこそ尊く、存在していたかどうかすら怪しい幻想だからこそ、我々をいつまでも惹きつけている。合理性から離れてしまったからこそ理解不能であり、でもそこに自己を変革する可能性があったのは間違いない。


コミュニケーションの爆発的な連鎖、共同性の獲得を諦めた先に可能と不可能が分離する前の祝福があってほしい。これは獲得するものではなく必然的に来るべきもの

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