やまゆり園の事件で植松被告に少しでも共感している人に読んでほしい話(´・ω・`)

https://mainichi.jp/articles/20200108/k00/00m/040/148000c

その人(人間)にとって大切なのは、自分とかかわりのある人の命であり、例えばブラジルの53歳ニートのおじさんが車にひかれて天国に旅立ってもおそらく、ぼくたちは悲しくない。

マザーテレサでもガンジーでもない、凡人なぼくらはだ。

やまゆり園の事件は、命が大切だから間違っているという話ではない。

もちろんぼくは命が大切だという立場をとる、それが腹落ちしていなくても良識ある社会人としてのマナーくらいの立場だと思ってくれればいい。

ぼくが、今回のやまゆり園の事件で感じるのは、家族の愛情の否定を感じるからすごく悲しくなり、そして間違っていると思っているのだ。

悲しいかな、Twitterなどでは、医療職で植松被告の気持ちがわからないでもないというそちらに共感を示す人も少数ながらいる。

ほんとうに恥ずかしい話をしよう、20代前半のぼくならたぶんその少量の共感をしていたと思う。

病院や施設で重度の障害のある方をなんども見る機会があった、正直にいうとなんのために生きているのかぼくにはわからなかった。

この人はなんのために生きているんだろうか?

この人はなんのために生きているんだろうか?

愚かなぼくは、神のような目線でそのようなことを考えていた。

訪問リハの世界に飛び込み、いろいろな本当に沢山の住居に家庭に住まいに伺い、多様な家族関係におののき、そして、たくさんの愛情を溢れる家庭をみてきた。

そう、彼らは家族から愛されているのだ。もしくは愛されていたのだ。

ぼくが、家族を愛するように、友人を大切に思うように、両親に感謝するように彼らはその人生の中で愛情を受けて生きているのだ。

生産性がないから、動けないから、自分で意思表示できないから生きている意味がない。なんと傲慢なそして、悲しい考え方なのだろうか。

その考えの延長線上には、例えばあなたの大切な人が認知症になったら大切ではなくなるのですか?という問いが生まれるとぼくは考える。

それは飛び切りリハビリテーション的ではない考えである。

ぼくにとっての事件の本質は、家族の愛情の否定と受け取った。

植松被告は間違っているし、ぼくたちは社会は彼に1mmの共感をする必要はないと強く断ずる。

最後に、家族から愛されていないのなら、生きている価値がないと短絡的に考えないでほしい、あなたと同じように彼らもぼくたちも誰かに祝福されて生まれてきたのだ。

彼らが人間的に扱われなかったときに、おそくらはその祝福した人はすごく悲しい気持ちになるだろう。

それは間違いなのだ。何度も言う、ぼくたちは職業倫理上、社会通念上、道徳上、すべての規律模範を総動員して、今回の事件の背後にある思想を否定するべきだとぼくは考える。

強く考える。

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