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清水寺で仏教から学ぶ、病との向き合い方

こんにちは。harmo広報の北畠ユイカです。私は今患者さまの声を聴き、世の中に発信するメディアとして「生きるを照らす」を発信しています。

今回は、音羽山 清水寺 執事 大西 英玄氏との対談を通じて、仏教の教えがどのように日常生活に取り入れられ、苦しみを乗り越える力となるのかを伺いました。
 
清水寺 大西氏には、大切なひとを見守るための新しい御守「harmoおくすり御守」の制作の際にご縁をいただきました。


北畠
大西さん、本日はよろしくお願いします。「生きるを照らす」は、noteのマガジンで発信している記事です。患者さまの心の声に耳を傾け、今までの経験とその時に感じた感情を、記事を通して世の中に発信しています。

大西氏 
よろしくお願いします。「生きるを照らす」という言葉は北畠さんが考えられたのですか?

北畠
私が考えました。病気を治療する過程で、薬を飲む方が多くいらっしゃいますが、その時の感情は、常にポジティブなものではありません。時には辛くてネガティブになることもあります。

また、人によっては暗闇の世界から出てこられず、希望を見つけたいのに見つけられないといった方もいるかもしれません。それでも、どんな状態であっても、誰しも”今”という瞬間を生きています。

”今を生きている証”として、患者さま一人ひとりの生き方を照らすことで、マイナスだった感情がポジティブに変わったり、記事を通して同じ悩みを抱える方々の少しでも心の支えになりうると信じています。
 
今まで多くの患者さまの声を聴かせていただきましたが、「自分の辛かった経験が誰かのためになることで、今まで経験してきたことがよかったと思える」「自分の経験を共有することで、同じ病気で悩む方の心の支えになりたい」と仰ってくださる方も多くいました。

この信念のもと、「生きるを照らす」を通じて、患者さま一人ひとりの人生を世の中に発信しています。

大西氏
なかなか患者さんの声を聴きたくても聴けない人はたくさんいると思います。直接患者さまの声を聴くこと、更にはそれらを伝えていくご自身のお勤めの意義や、やりがいを感じられるのは素敵なことですね。

北畠
ありがとうございます。「照らす」といえば仏教の教えで「一隅を照らす」という言葉を耳にしたことがありますが、詳しく教えていただけますか。

大西
「一隅を照らす」という教えは、文字通り光が最も届きにくいところを照らすという意味があります。これは天台宗を開かれた伝教大師最澄師が遺した言葉で、特に天台宗様では大切にされています。

他にも光に関する仏教語として例えば「法光」や「光明」といった言葉があります。「光」は希望といった前向きな力を内在する、また分け隔てがないといった意味合いがあります。

harmoの諸活動においても、その原点は患者さまや医療従事者さまの声からはじまると思いますが、皆さまの諸活動に最初は懐疑的な方がいたとしても、その光がいずれその方にも届くと信じています。

北畠
仏教の様々な教え中に「光を照らす」という意味が含まれているのですね。

清水寺にお参りに来られる方の中には、「家族や大切な人の病気が治りますように」「自分の病気が治りますように」といった願いを込められる方もいらっしゃるかと思いますが、そういう方々に対して、仏教の視点から、苦しみとの付き合い方についてどのようにお伝えしていますか。

大西氏
まず前提として仏教では「生きることは苦しいことだ」という考えから始まります。そのため、苦しみに向き合い、受け容れ、乗り越えていく、日々細やかな喜びや幸せ、充実を噛みしめていくには受身ではなく、自らが能動的に働きかける姿勢が重要だと思います。

さらにすべてのものは「諸行無常」(=すべてのものは常に変化している)、永遠不変に変わらないものはなく、良い状態も悪い状態もずっと続かないということ、そして「諸法無我」(=すべてのものは縁の結びつきによってはじめて存在する)、誰もが支え合って生きてなければならないこと、この双方も併せて大切とされます。
 
例えば実際にしては怒られますが、下りのエスカレーターを上ろう、またはその場に立ち続けようとしても駆け足が必要ですね。下りのエスカレーターとは我々の暮らしのことであり、駆け足というのは能動的姿勢です。少しずつ下がっていくのは止む無しですが、やはり足を動かし続けなければなりません。またやみくもに動かすのではなく、そこに良いも悪いもずっと続かないという智慧、そして一人で足を動かすようで互いに助け合っていくという姿勢が肝心ですね。

北畠
幸せを得るためには能動的な姿勢が大切なのですね。そして、苦しい時こそ人と支え合うことが大事なのですね。

大西氏
その通りです。日本には良くも悪くも察しや恥の文化があり、時に自分自身の想いを相手に伝えることを難しく感じることがあるのですが、本来、人はひとりでは生きられないので、もっと言葉にして、行動にして想いを伝え合い、お互いに支え、助け合うことでより豊かな人生を送ることができます。まずは能動的にこちらからより「ありがとう」と伝えていくことから始めてはいかがでしょうか。

特に、家族や大事な人とのやり取りでは、常にポジティブなことだけでなく、しんどさや悲しみ、嫌だというネガティブな感情も含めて、言葉を選ばずに表現するならば、もっとお互いぶつけ合っていいと思います。
 
当然そこには自分が正しいという慢心を取り除き、忍耐によって自他に対する怒りと折り合いをつけ、時間をかけて互いを知ろうとする寛容さや思いやりが重要です。しかし、先にお伝えしました通り、元々苦しみが前提、つまり思い通りにいかない、それは親しい方々であったとしても然りです。我々は相手を見ているようで、分かっているつもりで、自分がこうあって欲しいように独り歩きして想定してしまうことがあります。
 
また昨今、一層慌ただしい日々を送るようになり、しっかりと互いに向き合うということがそもそも不十分なように感じます。互いに向き合うとは時に大変な作業です。でもだからこそ修行であり、尊いと思うのです。

そして、互いに伝え合うことで心に湧き上がる様々な想いや感情、日々の生活が、目の前の大切な存在が実は全て奇跡の連続だということに少しでも気づけたなら、その実感は私たちの人生において大きな意義を持つのではないでしょうか。

北畠
心に湧き上がる本心をありのまま表現することで、人々にどのような影響を与えますか?

大西氏
人が持つよどみのない本心には、他人の心を動かす大きな力があると信じています。五体満足であろうが、怪我をしていようが、病気であろうが、一人ひとりの心からにじみ出る言葉や行動は想像以上にエネルギーを持っています。誰しもこれまでの人生の歩みにおいて、たとえば入学式や卒業式、結婚式、出産や慶事等大切な節目を迎えた時、またスポーツや芸術等真剣に取り組む人の姿を見た時、感動することがありますね。このようによどみのない心、それに伴う姿は大きな力があると思うのです。それは先に述べた通り本来奇跡の連続である何気ない日々でも然りです。

しかし社会に出ると体裁を整えたり、相手に誤解を与えないように表現したり、丁寧に伝えようとするがゆえに言葉が多くなりすぎたり、遠回りをしてしまいがちですね。

心の内で本当に感じていることを丁寧にありのまま伝えることは、時に勇気がいるかもしれません。しかしその勇気が自分はもとより相手をより深く知る善縁となり、結果双方の絆や励み、力になると思います。

ちなみに「平常心」と言いますが、仏教では些か解釈が異なります。たとえばプレゼンテーションで緊張する時、その緊張を無理に抑えて自身が思う常に近い状態を「平常心」と定義しますが、仏教では緊張している時は緊張したままを「平常心」と理解します。相手に心から思うことを伝える、そこに緊張があっても構いません。その瞬間の緊張があなたの「平常心」なのですから。

北畠
ありのままの自分を表現することは、他人の心を動かす力があるのですね。
さいごに、清水寺にお参りに来られる患者さまへ一言メッセージをお願いします。

大西氏
清水寺という場所は人や社会の小さな希望の場所であり続けたらと願っています。
 
清水寺は創建以来1200年の歴史の中、十回火事に遭いその都度再建されてきました。これは並々ならないことと思います。そして有形無形のあまたの先人たちの誠の想いが培われて現在に至ります。時代によって価値観は異なるものの、この寺が世の中に必要であるという信念が途切れることなくあり続けたからこそ、単なる歴史的文化遺産としてだけでなく現在進行形仏教寺院、つまり祈りの場として今があります。この歴史的背景が今を生きる我々の勇気や希望、感動の一助に叶えば嬉しいですね。

さいごに
大西さんありがとうございました。このインタビューを通じて、仏教の教えを学ぶことができました。
ありのままを受け入れながら、家族や大切な人と本音を共有し、病気で辛い時も他人への思いやりを忘れないといった、具体的に日常で実践できることも教えていただきました。
これからも「生きるを照らす」の記事を通して一人ひとりの生き方を照らしていきます。

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