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思いやりのある子を育てる

小学生の宿題に「自分の名前の由来を聞いてくる」というものがあった。

みんなの発表を聞いていると「思いやりのある子に」「優しい子に」育って欲しいというような意図で名付けられたものが多いのだなぁと興味深く聞いた覚えがある。

自分たちを振り返るとそれぞれ仏教的な視点からみた真理に基づいて名付けたのだということで「お前たち3人の名前がお父さんの遺言やから」と父は繰り返していた。

でも人の気持ちがわかるように、ともよく言っていた。
親が繰り返す言葉はそれはもう脅迫めいたものになっていく。

実のところ一人っ子だった父の方がよっぽど人の気持ちのわからない無神経男だと思うのだが、彼はよく人がどこでどういう反応をしたか、行動によって判断を下し、それが彼にとっての「優しい思いやりのある子」の行動規範に沿わないといじめっ子のリーダーのような言動をした。

・・・本当に大人げない未熟なところのある人間なのだ、父は。真理の探究という意味では教わるところも多かったのだけれど。
当時は彼も若かったし、人間としていかに生きるかを探究していたとしてもそれをどのように次の世代に伝えるかという教育については学んでいなかった、それだけだと思う。

で、当時のわたしは大いに傷つけられたし、そのせいで意固地にもなった。
その経験から思ったことを少し書きたいと思う。

人の中にある優しさ。
それは共感から芽吹いてくるものだと思う。

赤ちゃんや小さなこどもは自分の境界が曖昧だ。特に母親とは意識を共有していて、同じ夢をみていたりする。母親が口に出していなくても返事をしてきたりする。

そのときに触れているものでこどもたちは優しさの種をそれぞれ育てていっているとわたしは思う。
でもなにかほんの些細なことで驚いたり傷つけられたとか理解されなかったとか、現実の出来事に対してそういう意味付け(理解)をしてしまうことがある。

それは未熟だからそういう理解をしてしまっただけなのだけれど、例えば母親が驚いて大声を上げたのを初めて聞いたとき、ショックでなにか拒絶された信号として受け取ってしまったり。

妹や弟が生まれて両親がそちらに手を焼いていたためこれまでの両親を独り占めしていた世界から一変してしまったことをネガティブに受け取ったり。

そういう時、優しい子が優しさを十分に発揮できないことを親は責めがちだ。
そして「優しくない言動」を見て「優しくない子」とレッテルを貼る。
誰かに優しくない言動を放つのを見て「思いやりのない子」という。

でもその短絡的な発言が一番思いやりがないと言っている本人は気づいているのだろうか。
「自分の心に痛みがあっても常に周囲に思いやりを発していろ」と、そんなことを理想ではあるにしても、それを元にこどもを裁き続けたらその子は生きながらこころが殺されてしまうのではないだろうか。

素直な自分のこころでいることが、一番こころ許しているはずの両親の前でさえ許されないのだから。

優しさの種は優しさの雨で、思いやりの雨で、そしてたくさんの愛という太陽のひかりで育つと思う。
もしこどもに優しく思いやり溢れるこどもに育って欲しいなら、自分がどんな言葉を与えているか、そのことばが持つ波動がどんな感じがするか、感じてみて欲しい。

「よかったね」ひとつも、共感の笑顔のよかったねもあれば、スマホいじりながらの無表情なよかったねまで色々だ。
どちらがこころを温かく、柔らかにするかはいうまでもないのだから。

だから。
思いやりも、優しさも、まずは自分自身に。
どう育ったかは変わらないけれど、生きている限り遅すぎることなんてない。

逆説的だけれど、無理して人に優しくなんてしなくていい。
そうすることが自分に優しくないのならば、自分を思いやっていないのなら、それ以上自分を苦しめてまでやることなんてない

人に優しくないと苦しむような人は、もう充分に優しいのだから。

そうやって苦しむ自分自身を枷から解き放ってありのままの自分をみて好きでいられること。
他の誰かを優しさを基準に裁かないようになること。
そのとき、その人は本当の思いやりを手に入れるとわたしは思う。

「思いやりのある人間になる」という呪縛から解き放たれると思う。

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