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「言葉」を知ることの深み

驚くべきマヤ語の真実

いま、食事をしながらこのnoteをご覧になっている方がいらしたら、どうぞ気を付けていただきたい。私はこれから何を隠そう「下痢」の話をしたいと考えています。

ある日の午後、私のもとに大学時代の先輩からこんなLINEが届きました。

もりかは私のあだ名ww

「は、下痢ですか!?」

私が通ったのは、関西にかつてあった外国語大学。私自身の専攻はアフリカ地域文化だったためメインにスワヒリ語を学びましたが、学内では英語や中国語以外にも、ヨルバ語やヒンディー語、アムハラ語なんていう、日本社会に生活しているとなかなかお目に(お耳に)かかれない言語に関する講義をも、受講することができました。

そんな私たち。他民族の歴史や文化には元来、興味があります。が、それにしたって…下痢の語彙がそれほど豊富な民族についての知識はありませんでした。

さっそくインターネットで検索をかけます。

下痢 語彙 民族

すると、見事ヒットしたのが南アメリカに存在するユカタン・マヤ族の言葉だったのです。

ユカタン・マヤ族
紀元前四世紀から10世紀にかけて、グアテマラ、ホンジュラスに国家を営み、後にユカタン半島に移り、10世紀から17世紀にわたり繁栄した民族のこと。現在はグアテマラのほか、メキシコに住む。

 マヤ族(マヤぞく)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

このマヤ族、下痢に関する記述が辞書内にたいへん多く記載されていて、語彙も多岐にわたっているそう。例えば…

kik nak「下痢、排泄」
kik choch「下血を伴う下痢」
holok taa「継続する下痢」
hunac taa「止まらない下痢」
thun「しぶりを伴う下痢」…続く

ユカタン・マヤ語における病気症状語彙(後篇)
東北大学大学院国際文化研究科 吉田栄人著

下痢のオンパレードです。なぜこれほどまでに下痢についての症状を細かくかつ詳しく言い分ける必要があったのだろう…そんな単純な疑問がわきあがりました。

期せずして、下痢からスタートしたマヤ語の語彙に関する考察。(なんとも風変りな始まりですが…)進めていくと、言葉というものがその文化や歴史に強く紐づいていることがわかっていきました。

※なお、この文章はユカタン・マヤ語の知識がほぼ皆無、かつ参考にすべき文献にあまりあたらないまま書き進めていることをご容赦ください。

自然現象と密接に結びつく語彙

今回の記事執筆にあたり参考にさせていただいたのが、さきほどから引用している東北大学大学院の吉田栄人先生の研究論文です。

ユカタン・マヤ語における病気症状語彙(後篇)
※インターネットで検索すると、PDFで論文を閲覧することもできます。

論文を読み進めていると、とてもおもしろい記述がありました。それが、「下痢は、神様が遣わす存在」というもの。なんだか下痢のイメージが変わりそう…!

曰く、7月になるとKumku Chacという神(精霊)が、「これから1年間お腹が再びきれいな状態で食事ができるように、またそのためのスペースを作るために下痢(ppchil)を遣わす」という現地の方の言葉があるというのです。

さらに面白いのは、

ppochilの到来を告げる雷が鳴らなければ、「汚れはそのまま固くなる」=その年は不作になる

こんな言われ方が存在すること。下痢(ppchil)を告げる雷がならないと不作…?ちょっと意味がつながりませんよね。

実はこのppochilという単語。本来は植物が花を付けることを指すものだそう。

7月というと、5月頃に種まきをしたトウモロコシがそろそろ穂を出す頃合いであり、この時期、雷を伴う十分な雨が降らないとトウモロコシは不作となります。

雷が鳴らない→雨が降らない→開花(ppochil)しない

かつ、7月は農作業において重要な時期であると同時に、雨期のなかでも猛暑の頃。消化器系の病気をもたらす危険な時期とされていて、東の空で轟く雷とは、下痢の時期の到来と同時に、植物の開花をつげているという認識があったはずだと論文には書かれていました。

ユカタン・マヤでは古くから、身体に起こる生理現象が、雨や風といった自然現象と密接につながっていると考えられていたのかもしれません。

語彙の多様性が生まれるのはなぜ?

マヤ語には下痢の言語以外にも、湿疹や潰瘍などの皮膚性疾患にまつわる語彙も豊富だそう。

翻って日本はどうでしょう。例えば「色」の語彙が豊富なことは、よく言われますね。文化によって豊富な語彙がそれぞれに存在するっておもしろいなぁと感じます。

マヤ語で下痢を表す語彙がこれほど多様化したこと、そこにはどんな理由がありそうでしょうか。浅学ながら、私が思いついたことと言えば

近代的な衛生管理が行き届かない社会において下痢は恒常的な疾患であるばかりか、乳幼児にとっては致死率の極めて高い病気である。

同上

論文にあったこの記載から推測するに、薬もなくて、医療も今ほどは発達しておらず、社会における下痢というものの影響力が大きかった時代に何とかその症状に対処していくために、語彙を増やす必要があったのでは?ということ。

場合によっては命にも関わる症状。それぞれの症例を丁寧に観察した結果、語彙を必然的に増やしたのがマヤの人々だったのではないか、そしてそれが今にも続くのでは…と考えました。

言葉を知ることは、その後ろにあるいくつもの背景を知ること

言葉を知るって面白い。その言葉を使う人たちの歩んできた歴史とか、文化とか社会、風俗…そんな様々な背景を知ることなんだよなぁと改めて感じます。

そしてこれはなにも、「言語」なんて大きな枠組みだけはなく、もっと日常的な、ささいな言葉のやりとりにおいても言えること。

つまり、個別具体的な、あの人・この人の使う言葉について、やっぱりその言葉を放った、あの人・この人の背景を知ってこそ、その人が意図する「ほんとうの意味」が見えてくるのかもしれないなぁとも思うわけです。

先輩から届いたLINEが、いろいろなことを考えるきっかけとなりました。


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