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Mar. 2023 Diary

気づいたら春だった。

煩わしい出来事や年をまたいだ憂鬱な事柄で半ばやさぐれながら冬を過ごし、死の匂いを振り払おうと必死にあがいてる間に、厳しい冬が終わった。

通院を再開してから、主治医の見立てを聞くと、まだ働くのはきついだろうということで、ああそうか、そういう状態なんだと、改めて思い知り、何もしないで寝てばかりいた。

自分では気づかないフリをしていたけど結局はそういうことで、他人のことを考える余裕なんてなかったんだと今更ながら思い知る。
人の気持ちもわかるようなできた人間ではない。誰かのために動けるような健康で愛のある人間でもない。むしろ、誰かのためにという気持ちが不健全なまま暴走して、自分のことがおざなりになっていた。気づけばいつもそうだった。自分の人生がおいてけぼりになる。自分を大事にできていない。
「何がしたいのかわからない」と言われたのはつい最近のことだった。それが自分でわかってたら、こんなに人生失敗してなかっただろう。

自分のこともままならないまま、半年が経つ。
その事実に蓋をしたまま、冬が終わった。

読み進められずにいた本の、「自分という最良の友達を大事にする」ということが、できたためしがない。こんなにも自己中心的なのに。自分の気持ちがよくわからない。
それがわかるまで、誰かと共に生きるなんて考えてる場合ではないんだろう。

理解が及ばない悲しみに自分がもうこれ以上土足で踏み込むことがないことを祈る。
距離が近づけば近づくほど無神経になる自分を思うと、健康な精神となけなしの優しさを取り戻すのが先決なんだと思う。
自分が生きていくだけで精一杯なんだった。
それにしたって、こんなにも人の気持ちがわからないのに誰かのそばにいるなんてできるんだろうか。

音楽を聴いてワクワクすることが減った。
唯一ギリギリまで残るはずの音楽への知的好奇心は長らく枯れている。好きだったはずの曲の、どこが好きだったのかわからなくなっている。ただ、無音が怖いだけで、スピーカから垂れ流している。
音楽くらいしか趣味がない自分にはこれは憂鬱具合のバロメーターで、ひどくなると何も音楽を聴こうとも思わなくなる。再生ボタンすら押さない。無音で過ごす。そうはならないよう踏ん張っていたのかもしれない、そのことにも全く気づいてなかった。惰性でもいい、何か音楽が日常に流れているうちは、まだ大丈夫。でも、健康ではない。

もう誰も傷つけたくない。
誰かと共に生きていきたいけど、それにも臆病になっている。
それも、しょうがないのか。


自分でいることの惨めさ。
何度も人を傷つけてしまう自分の浅はかさ。
どう足掻いても、誰にもなれやしない。
相変わらずウジウジしてばかりいる。


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