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話さないからといって何も感じていない、思っていないわけじゃない

かがみの狐城を読んで、心の中に残っている思い。

最近、金曜ロードショーで映画版の「かがみの狐城」が放映されていたのでふと思い出した。

わたしの中ではその言葉が物語のどこかに書かれていたような気がするのだけど、ぱらぱらと見返してみても、そんなフレーズがどこにも見つからない。(見逃してるだけ?)

もしかしたらその本を読んで、それだけ心に深く刻まれた自分自身の思いだったのかもしれない。


しゃべらない子

わたしは昔、全くしゃべらない子だった。といってもすべての人にというわけでもなくて、心を許した人(たぶんこういうカテゴライズなのかな)の前ではよくしゃべってた。

相手が悪いというわけじゃない。自分でもわからないけど、親戚が大勢集まる場や学校の集団の中、そういう大きな場ではほんとうにしゃべらずただニコニコしているお人形さんみたいな子だった。
(今思うと場面緘黙症だったのかもしれない)

それでも内心はいろいろなことを思ってた。
何を考えていたかまではもうあまり覚えていないけれど
すっごくしんどくて、すっごく疲れたことだけは覚えてる。

今思うと何か恐れのようなものがあったのかもしれない。

この小説の中でも、主人公「こころ」が相手に対して言い淀む場面がいくつも存在する。

そのたびに「あっ」と思う。

相手にわかってもらえなかったら悲しい。
今のこの気持ちをことばとしてどう表せばいいのかわからない
言葉が通じない相手に(同じ世界線に住んでいない→価値観も正解もお互い違う中で)どうやって言葉を紡いでいけばよいのか

主人公の気持ちにとてもリンクした。

言わないじゃなくて、言えないのだ。
だからこそ、その言えないことがとても辛く、重くのしかかった。

そこから「ことばを紡ぐ」ということが生きる中でひとつのテーマになっていくのだけど、それはまた別のお話。


送り手の立場になって見える景色

と、ここまで散々「話さない人」目線のことを語っておいて、

相手がそのような態度だと、たちまち戸惑ってしまう自分も存在する(小さいやつでごめん)

特に仕事で、情報発信や教育などなんらかの「送り手」となったとき。
相手からの反応がないと、内心とてもどきどきしてしまう。

そんなとき。いつも昔の自分のことを思い出す。

黙っているのは、次のことばを探してくれているのかもしれない
感情表現をするのが少し苦手なのかもしれない
ずっとさっき発したことばの意味を感じてくれているのかもしれない

マイナスな解釈が頭をよぎると、それを振り払ってそんなことを考える。実際に、反応がなくてやらかしてしまったかもと思っても後々すごくよかったこともある。

だから、昔の経験があってよかった。
なんてことはない。
けど、昔の自分がいたから今いろんな景色がみえているのかもしれないと思うと、昔の自分が今の自分を救ってくれている部分ももしかしたらあるのかもしれない。

そして、今そういった環境に身を置かせていただいている、この境遇に感謝ばかりである。

とはいえ、失敗もたくさんある。いや、むしろ失敗の方がはるかに多くて、その度に不甲斐なさと、くやしさと、悲しさでいっぱいになる
どうして人はわかっていても繰り返してしまうのだろう

ひとはひとりひとり違うから
終わりない練習なのかもしれない。
毎回本番の。

言いたいことがわからなくなったけど、

なんていうか巡り巡って、今度こそ自分自身も周りの大切な人たちも受け止められるようになったらいいなと

そんなことを思う。







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