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この愛らしく頼もしく切ない同居人

読書感想文 『ペンギンの憂鬱』アンドレイ・クルコフ

動物と暮らしていると、唐突に驚くことがある。この明らかに自分とは全く違った意識と意思を持った生き物が、当たり前のように部屋の隅を歩いていて、生きているということに。本当に、不意に不思議になるのだ。『我々は家族である』とか『我々は恋人同士である』とか、明確な関係の確認はできない。動物は他人のように、家族のように、恋人のように、空気のように、生活に侵入していながら確固たる約束はしてくれない。一方的に家族だと思うことはできる。けれど、向こうは表明はしてくれない。それが時に切なく、それでいて愛おしい。『ペンギンの憂鬱』は、この動物と暮らす心の揺れをつぶさに描く。

ウクライナの小説家によって描かれたこの作品には、夏は暑く冬は寒いウクライナの匂いが染み込んでいる。孤独な売れない小説家ヴィクトルは、動物園から憂鬱症の皇帝ペンギンのミーシャを譲り受け、一緒に暮らしている。ある日、新聞社から追悼文の依頼を受ける。それも、まだ亡くなっていない人間の追悼文なのだ。不思議に思いながらもヴィクトルは追悼文を書くようになる。そして追悼文を巡って、あらゆる人間と知り合うようになる。良い出会いもあれば、恐ろしげな出会いもある。ヴィクトルは知らず知らずのうちに、何かに巻き込まれていく。

平凡な日々に突如現れる不安。不安は気付かぬ内にどんどんとヴィクトルの生活を侵食していく。もし、何かに巻き込まれるとするならば、ハリウッド映画のようにいきなり人生が一変するのではなく、本当はこのように静かに飲まれていくのではないかと思わせる。アンドレイ・クルコフはとにかく、日々の些細な生活がじわじわと塗り替えられる様を描くのがうまい。

もちろんこの作品に欠かせないのがペンギンのミーシャだ。日本で好きなSFランキングなどをやると必ず入ってくる『夏への扉』は、時として猫小説などと呼ばれ、アイコンではあるけれど役割が少ないデューイが注目されることがあるが、ミーシャはその比ではない。ミーシャは物語の中心で、ヴィクトルの心を反映し、読者を安心させ、それでいて物悲しさを増幅させる。

ミーシャはそこにいるだけだ。何か役割を背負わせられることも、普通でないあり方を要求されることもない。ミーシャはそこにいるだけで、中心になる。そして、ヴィクトルはこのペンギンに友情や愛情、絆を感じる反面、その関係に名前を付けられずにいる。お互いの孤独を持ち寄った依存的な関係と表現し、一歩引いているようにみせて、それでもどの人間よりも寄り添ってくれているようも感じている。動物と暮らす満足と充実に居座る、落ち着かなさがいつだって見え隠れする。

ソ連崩壊直後のウクライナの様子を知っていれば、本作をもっと理解し、楽しめる。独立による高揚感と無秩序。反社会勢力や親露派、反露派が対立し混沌を極めている。人の死が極めて近い時代。もちろん、知らなくてもミーシャが楽しむことを手伝ってくれる。

さて、ウクライナは公用語をウクライナ語としながらもその歴史からロシア語話者が極めて多い。ところが、近年はロシア語を排斥する動きが出ている。アンドレイ・クルコフもロシア語で執筆しており、この排斥が及ばないことを祈る。言語の排斥によって、文学は阻害されてはならない。ちなみに続編『カタツムリの法則』は日本語訳されていない。どうやら、文学性が薄まりエンタメ色が強く、評価がいまいちなのだそう。ミーシャロスなのでとても読みたいのだけれど、ロシア語を勉学する根性がない。


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