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万人に配慮なんてできっこない

「規制」という言葉ネガティブですか?

表現問題で「規制」と「配慮」の2ワードが良くキーになっているな、と感じています。
そこで不思議なのが殆どの人が「規制しろとは言ってない」という風に言うんですよね。
なぜ規制という言葉を否定するのかは薄っすらとは予測できるけど、中々腑に落ちてこないです。

だって規制って悪い言葉じゃないでしょう。
交通規制・環境規制・安全規制…どれもネガティブなイメージありますか?
だから制限したいなら「規制したい、するべき」ってはっきり言う論者がいてもいいと思うんです。
別に規制=悪じゃないんだから、はっきりスタンスとってしまった方が解りやすいのに、と思わずにはいられません。

誰に配慮をしているの?

で、配慮されてる状況について少し考えてみようと思います。
丁度、僕は喫煙者で喫茶店でプカプカするのが好きなので、そこから発想をスタートしてみます。

まずスタバ。ここは全面禁煙ですよね。
まさに煙草を吸わない人に配慮した店舗と言っていい。
逆に今のご時世には合っていないかもしれないけれど、全席喫煙可の喫茶店もあるでしょう。(固有名詞が出せないですが、個人店なんかではまだ残ってますよね。)
今時ですと、一見配慮ができていないと捉えがちですが、どうでしょうか。
気兼ねなく煙草を吸いたいお客さんに配慮しているのが理由かもしれません。
分煙にしている店舗もあります。
これはどちらにも向けて配慮しているから、一番良いのでしょうか?
本当に煙草の駄目な人からしたら、臭いや煙が完全にシャットアウトできず無理かもしれないですし、喫煙者からすると、喫煙室スペースが狭かったり、景色の悪い所にあって、行き届いていないかもしれません。

店側はどんな人に向けて配慮するかを選択しているのです。
逆に全ての人に配慮を尽くすということは到底無理だということです。
だから、「自分に配慮されていない」=「配慮がない」はいささか短絡的で自己中心的だと思います。
このケースで考えると多くの人はこのことを理解しているはずです。
スタバで煙草を吸えないからといってクレームをつけている人なんて殆どいいないでしょう。
僕も店に入ってから、煙草が吸えないとしても「あ、失敗した。今度は来ないかな」とは思うかもしれません、でもケチはつけません。
僕を含めた喫煙者より別に配慮するターゲットがいるんだね、というだけだからです。

配慮してもらえるのは有難いことですから、お願いすることが悪いことだとまでは言いません。
でも、その選択は配慮をする側にあり、配慮されて当然だという思いは図々しい思い上がりではないでしょうか?
自分への配慮をしてもらった事で、誰かが顧みられなくなっている可能性にも思いを致すべきだと考えています。

規制について煙草吸って考えてみた


煙草を話題にしてみたのは、その先の話にも接続しやすいからです。

東京をはじめ多くの自治体で飲食店では全面的に喫煙を規制しようという流れです。
個人的にはこの動きが気に入らないところはあります。
自分が喫煙者だから、というのが感情的にはあるからですが、どうにも「世界的な流れだから」とか「オリンピックがあるから」といった、フワッとした理由で押し通しているように見えるからです。
しかし、残念ながら仕方ないという思いもあります。
それは煙草と健康被害(それも周囲の人も含めて)に科学的なエビデンスがあるからです。
※一部にはそうではないとする意見もあるようですが、私見では陰謀論レベルの理論にすぎないように見受けられます。

僕は規制をかけるのは少なくとも規制をかけるに足る、科学的な根拠に立脚すべきという考えです。
それを説明するために合わせてここまで話を展開してみました。

ただし、これは僕の立場です。
なので、「何となく合意のある規範意識から逸脱したものは全て規制してしまおう」、「立証されていないけど被害を及ぼすかもしれないから規制してしまおう」という立場はあり得ると思います。
そして、この筋で理論がきちんと確立できたら、今停滞している表現問題の議論について何か新しい視座が生まれるのでは、と逆の立場の人間でありながら密かに期待をしています。



相変わらず自分用に整理をしながら、纏まり切っていないと思いつつ今日はここまで。
「配慮」がゲシュタルト崩壊しそう…

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