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「フェミニズム」と「SEXさせてあげる権」

僕のnoteで一番最初に書いたのが下の記事でした。
1年ちょっと経ちましたが、それを取り巻く状況はちーっとも変わらないので、区切りとして「フェミニズム」って何なのか自分なりに整理してみようと思います。

以下念のために原則「フェミニズム」と括弧つけで記載します。
概ね現在の特にSNS上で顕著なフェミニズムの潮流として捉えて言及します。

「フェミニズム」とは「SEXさせてあげる権」の価格吊り上げである

これが色々と考えてみた末の結論です。
「フェミニズム」とは思想でも社会運動でもない、ある種の経済原理に基づいた活動だ、ということです。

大いに異論もあるでしょう。
ただ、現在のあちこちでの摩擦や炎上の現象を説明するのであれば、こう捉えるのが最も辻褄があうように思われるのです。

これまで僕はフェミニズムとは女性の権利向上を考え方の基盤としていると考えていました。
ですが現在の「フェミニズム」の主張の根幹は「SEX及びそれを連想させるものを世の中から締め出したい」としか見て差し支えないように思われます。

意に沿わない女性にSEXを押し付けているのであれば、権利の侵害ですから、フェミニズムとしてそれへの抗議は必要だと言えるでしょう。
しかし、誰の権利も侵害していないSEXや性的な表現・事象をも排除すべきというのは、誰の、何の権利向上に関係があるのでしょうか?

一方で「SEXさせてあげる権」(以下長いので「SEX権」と省略しちゃいます)を吊り上げるという観点から見ると「SEX及びそれを連想させるものは全て世の中から締め出したい」は合理的です。
「SEXさせてあげる」の代替手段が世の中から淘汰されるほど、市場価値が上がるのは当然の話ですから。
ゆえに改めて言いますが、「フェミニズム」とは「SEXさせてあげる権」の価格吊り上げである、ここに行きつくのです。

卑近な言い方をすれば二次元であろうと三次元であろうと身近にセクシーなものがあれば、SEXの代替としてマスターベーションで済ませてしまうという考え方ができるということです(僕個人は「それはそれ、これはこれ」だと思いますが)。
そうすれば、「SEX権」の価値は相対的には下がってしまいますから排除するのが望ましいでしょう。
また性的かどうか議論が分かれるようなケースですら、きちんと検証しないのは、「一人でも性的興奮を覚える可能性があるなら存在しない方が都合が良い」がこの原理では論理的な整合性より優先されることで説明がつくと考えられます。

なぜ思想ではないのか

ある種の経済原理であっても思想であることと両立はしうるという指摘はあると思います。
では、僕がなぜ思想とみなさないのか。
端的に言えば「一人一派」だからです。各人の主張の背後にある理屈も根拠もバラバラです。
主張を受け止める側はそのバラバラな根拠のどれで「それは差別である」「それは不当である」という主張に納得すれば良いのでしょう?
現状では「論の筋道はどうでもよい、主張を無条件で肯定せよ」でしかありません。

これを思想と呼べますか?

なぜ社会運動ではないのか

同様にこちらも。
社会運動であるならば、多くの人に賛同してもらおうとする努力が必要ではないでしょうか。
社会をより良い方向に変えるなら多くの人から応援がされる状況の方が望ましいはずです。
しかし実際は「フェミニズム」に反する人間を「クソオス」「名誉男性」と罵り、平気で「死ね」「クビになればいい」そんな言葉を平気で使いますね。

もちろん最終的にどうしても解り合えない人は残ります。
でも罵倒し蔑む必要はあるでしょうか、却って強固な敵対意識を芽生えさせて社会を変える障害になるのではないでしょうか。
はっきり言ってしまえば、社会を良くしようなんて、これっぽっちも思ってないから、そんなことができるのです。

それを社会運動と呼べますか?

「SEX権」を吊り上げるのは悪か?

かなり批判的に書いているので見出しのような指摘はあるかもしれませんが、それ自体は別に悪い事ではないと思います。
というよりも自分の「SEX権」に値段をつけるのは一人ひとりなのですから、良い悪いの話ではないでしょう。
高くしたい人はすればよいだけです。

問題なのは、そのためには手段を選ばないことです。
誰の、何の権利を侵害したかの説明もできないのに、実力行使をする点です。
「SEX権」の高額化のためならば、他人の権利を平気で踏みにじることです。

典型例を挙げましょう。
僕はここ1-2年で「フェミニズム」が炎上させてきた案件の中でも、広告モデルの女性に誹謗中傷を投げつけ奇形とまでのたまった事案は最低に部類される愚行だったと思います。
※被害を被った方がいるので、これ以上の具体的な言及は避けます。
あれは明らかな権利の侵害でした。それも「SEX権」が一人の人間が自由意思で選択した生き方より重大であるというあまりに傲慢な価値判断に基づく他者の生き方への介入でした。

この理屈で説明してみる

ここまで書き連ねてみましたが、いくつか現実の事象に重ねて考えてみました。

「ゾーニングを突破してくる謎」
直近でホットな話題なのはこれでしょうか。
この原理で言うと、ゾーニング云々は建前で、性的な表現を「自分」は見てもいいんですよ。
むしろ自分を性的対象とするべき男性が見る方が困るのです。
男性に代替手段を与えない、が値の吊り上げには重要なのですから。
だから本人が目にしてしまうことは実はどうでもよい、それゆえ平気でゾーニングされた先を見に来るし、ゾーニングの先からも抹消したいという説明がつけられます。

「親「フェミニズム」男性のモテ自慢」
多くの親「フェミニズム」の男性が女性を擁護することよりも意に沿わない男性を侮蔑することに重きを置いているように見えます。
おそらく、他社を見下したいという欲求が第一で親「フェミニズム」でいることはオマケなのです。
「SEX権」に高値が付いていた方が、より「SEXできる俺」の市場価値も上がって、いわゆる「非モテ」の男性を見下すのに有効な道具なのでしょう。
トロフィーワイフを誇示するのに似ていて、かえって女性をSEXの対象としてしか見てない気がしますが、結局「SEX権」という己にとって都合の良い武器を振り回したいということでしょう。

「名誉男性という罵倒について」
これは解りやすいです。
既に言った通り、「SEX権」の価値の吊り上げが目的とみれば、排除するのに男性か女性で区別するのはナンセンスで、吊り上げに寄与できるか否かが良し悪しの基準になるからです。
ただ、女性として侮蔑すると「私」を含む女性全体の市場価値への棄損になってしまいますので、男として扱った方が都合が良く、そのような言葉で罵倒するということでしょう。

「BL無罪」
これも極めて解りやすくて。
男性がいかに性的に描かれようと、「SEX権」とは競合しないのです。
自分を性的な対象と認識する人々にとっては男性は性的対象ではないので、どれだけセクシーに描かれようと関係ないということです。

「性嫌悪」
定量的に見たことはないですが、親「フェミニズム」の主張を掲げるタイプには性嫌悪の傾向があるように見受けられます。
それはそうで、「SEXしたくない!」という思いが強いのであれば、おいそれと手が出ない高値にしてしまった方が合理的です。
よしんば、SEXの機会があったとしても、その対価が大きくなれば許容できるケースは大いにあるでしょう。


ここまで見て、「フェミニズム」とは「SEXさせてあげる権」の価格吊り上げである、という論は多少の牽強付会な所もあるかもしれませんが、個々に別々の理屈だてをして説明しなくても、広汎に現状の説明がつけられるという点では通底する原理としてみなしてよいと考えています。

で、お前何が言いたいんだよ

ここまで僕なりの分析をつらつらと書いてみたんですが、結局お前何が言いたいんだよという話です。
この文章で「だから「フェミニズム」は駄目なんだよ」と言いたい訳ではないです(思っていることは否定しません)。

冒頭に書いたように僕がウォッチしてから約1年、振り返ればもっと長い歳月「フェミニズム」と「アンチフェミニズム」は議論が全く噛み合わっていない状況が続いていますし、多分これからも噛み合わないんでしょう。
そこで噛み合わないまま終わるのでなく、もう一歩踏み込んでみると何か違う理がみえてこないかな、という問いかけが近いでしょうか。

僕も含めて、多くの人が荒唐無稽な矛盾した主張を見ると「お気持ち」案件だなと見なして、それで終わらせていると思います。
事実、「お気持ち」だから整合性がないというのは確かでしょう。
ただ結構な数の人が同じ「お気持ち」になる以上、その背後には共通の何かがあるのではないでしょうか。
それは何か、まで考えを巡らせてみてもよいのではないかと思う次第です。

だから「ああ、こういう見立てをする人もいるんだね」と捉えて、「いやいや、こういう考え方もできるかもしれない」「自分で分析するとこうではないか」そんな風に考えてみてもらえたら、こんなに幸いなことはありません。

最後に

能書きを垂れてみましたが、実際に「フェミニズム」を標榜してる人が、こんなことを考えながら活動しているとは思っていません。
だから「ちげーよ、何にも分かってないくせに」と言われるのは承知です。

それでも、あの一見無秩序な活動を説明するならば、自分の中ではこれが一番しっくりくるのです。
あれだけダブスタを指摘されているのに、否定するどころか全く認識すらできていないように見えるのは別の原理で動いていると考える方が腑に落ちるのです。

僕はセクシストだともレイシストだとも自認していません。
しかし、現在の社会で本稿のような考え方をすれば差別主義者と認定されるだろうとも重々認識をしています。
しかし差別主義者と見なされると解りながらも、このようにしか考えられませんでした。
お怒りになる方もいらっしゃるでしょうが、そんな時はどうぞ差別主義者の戯言とお思いください。
自分なりにその烙印を押される覚悟があるからこそ記述したつもりです。

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