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自己決定の重要性

こんにちは!りょーさんです。

私たち「E×W=」 はは繰り返し「自己決定が重要!」ってお話しを書いてきました。


「自分の人生は自分のものだ」という実感


「自分の人生は自分のものだ」という実感、「確かにそうだ」と思える実感、それが幸福(ウェルビーイング)の必要条件だと思っています。
と言って慌てて追記しますが、「自分の人生はさまざまなものによって支えられている」っていう実感も大事だと思ってはいます。
逆に「勉強ができること」は幸福の必要条件ではない、と僕は思っています。
と言ってこれも慌てて追記しますが、学校で習う勉強も含め「広い意味での教養」は人生を豊かにする可能性があります。とても大事なものです。

ただし、「勉強ができること」と「自分の人生は自分のものだ」という実感は結びついているわけではない。むしろ「勉強できないとダメだ」という信念や、ある種の学歴やそれによって下駄を履いている人生は、その実感への阻害要因にすらなり得ます。

そして、「自分の人生は自分のものだ」という実感のベースにあるものが「自己決定」だと僕は思っています。

今回は、別の観点でも「自己決定」の重要性を考えてみたいと思います。


自己決定が要求される時代に生きている


自己決定が必要な背景に時代的・社会的なものもあると思うのです。

3つの視点でみてみます。
①この社会においてすでに自由・人権・多様性などの概念が私たちの人生の重要な側面になってしまっている。
生き方の多様性も広がってしまっている。
自分の人生について自分で考えないとならぬ状態になってしまっている。
(「なってしまっている」というやや受動的・否定的に響く言葉にしているのは、私たちの意思とは関係なく社会はその方向にうごいているという意味合いを込めてみたいからです。望もうが望むまいが、今生きている(日本の)人たちはそのような社会的な動き、風潮の中で育ち生きることになるのです)


①自由・人権・多様性などの概念が私たちの人生の重要な側面になってしまっている


侍の子は侍になるものだ、女は嫁ぐものだ、、、そんな生まれによって決定づけられた未来は少なくとも減ってきています(だからと言って公正な社会が実現しているというわけではありません)。
僕たちは、これを知ってしまいました。「自由に生きていいんだ」ってやつです。
知ってしまったら息苦しい世襲とか可能性が狭まる「嫁ぐもの」なんて常識は廃れていきます。自由を知ったら自由の方がいいって思ってしまう。
これが②多様な生き方がある、ということを当たり前にしていきます。


②生き方の多様性も広がってしまっている


どんな職業についてもいいし、結婚してもいいし、しなくてもいい。その選択に「家族という縛り」は制度や文化としてはなくなっていく。
つまり「選べる」ってことです。選べるってことは生き方が多様になるってこと。
少なくともどんな職業についても、どんな人と結ばれるのも自由であり多様です。
逆にいうと僕たちは選ばないとならぬのです。③自分の人生は自分で選ばないとならないのです。


③自分の人生について自分で考えないとならぬ状態になってしまっている


あなたがどのように生きたいかか、あなたに選ぶ権利がある。これが近代社会以降の大きな流れです。
今までの常識や当たり前が通用しない面もある。大きな流れに乗っていれば「これで幸せになるんだろうな」っていうものもない。
学歴積んで大企業に勤めてお金稼いで、物質的に豊かな生活、これは今でも魅力的に響きますが、必ずしもそんなシンプルなレールが成立している時代ではない。以前より疑問視されているし、それ自体が持続性があるとも限らない。
大企業サラリーマンよりもユーチューバーって生き方のほうが理想的に見えるかもしれない。家族つくって一軒家建ててっていうよりはシェアハウスに住んで今までと違う形のコミュニティでワイワイ生きた方が幸せかもしれません。

社会はメッセージを発します。自由に生きて良い、自律的に生きなさい。
(ここで自律的に生きるってことは孤立して生きるってことではないってことも付け加えておきます)

「自律した個人」を前提にする文化と制度設計が進みます。


その要求は結構きついんだけど、、、


これって結構大変なことだなー
って思います。
だって、選ぶって大変じゃないですか?自律して生きるって大変!
生き方が多様ならば、多くの人たちが生き方に迷うってことです。
誰か決めてくれーって思うことだってたくさんなる。
この迷いは混乱を招きます。混乱は生きることへの虚しさを生むかもしれません。

でもこの流れは、不可避な流れだと思う。そして本当は決して悪いことではない。

だから自己決定が大事なのです。
「自由にいきたい(≒生きたいように生きたい)」は私たちの欲望の根っこにあるものだと思う。
だからこそ、自由が一定程度実現した社会はもう後戻りできない(一時的に揺り戻しがあるにせよ)。
そう考えると「自己決定的に生きる」ってことも不可避です。

それに一定の困難さがあるならば、練習が必要です。小さな小さな練習を重ねる。「自分のことは自分で決める」ってこと、「自分の関わるコミュニティのことは自分も意見を持つ」ってこと。

僕たちの社会はその練習の場を用意できてきるか?
教育現場はそれを意識して子どもたちと関わっているか?

僕は、そんな問いを自分の中におきながら日々の実践をしている、そんな感じです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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