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なぜフィクションを読むのか『テヘランでロリータを読む』


「最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目を向けさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます」(p.155)

『テヘランでロリータを読む』のなかでも、この文が特に好きだ。本書は英文学研究者アーザル・ナフィーシーのメモワール。彼女はイランのいくつかの大学で英文学を教えていた。取りあげた『グレート・ギャツビー』や『デイジー・ミラー』といった小説は、教室で議論を呼ぶ。西洋の頽廃した価値観を肯定した本だと怒る者、価値観に抗う登場人物に勇気づけられる者。『グレート・ギャツビー』をめぐっては、教室で本を被告にした(ナフィーシーが「本役」を務めた)裁判まで行われる。著者は、こうした優れた小説が学生たちを不安にさせたのだと書く。
読んでいて、大学に入ったばかりの頃、カルチュラルスタディーズを研究する先生から言われたことを思い出した。「この授業では皆さんを穴に落とします」。自分が信じていたことがいかに脆いかに気がつくだろう、と。それからは、安心・安全だとぼんやり信じていた日常に亀裂を入れる小説が気になった。英文学ではドリス・レッシングの『To Room Nineteen』やジョン・ウィンダムの『The Day of the Triffids』。日本文学では李琴峰や松田青子の作品。どれも読んだあと、景色は元に戻らなかった。ナフィーシーは、何度も「想像力の欠如」という罪について書く(「優れた小説に描かれた悪はほとんどそうだが、オースティンにおける悪もやはり、他者を「見る」能力の欠如、したがって他者の心を理解する能力の欠如にある」(p.516))。「優れた小説」は登場人物を通してこうした「悪」を示していることを、著者は読み解いていく。私が好きな小説も、日常を揺るがし、他者を「見る」ことを描いたものだった。

そしてまた、本を読むことで読む側の人生や考えが浮かび上がるということも、『テヘランでロリータを読む』からはわかる。タイトルの通り、テヘランで英文学を教え、研究してきた著者が読む『ロリータ』であり『グレート・ギャツビー』、『高慢と偏見』である。著者の読み解きと並行して、イランでの戦争や日常に入り込む暴力が描かれる。四部あるうち、最後の「オースティン」がいちばん印象に残った。本書はナフィーシーが何人かの生徒と自宅で行っていた秘密のクラス(読者会)に始まり、秘密のクラスの終わりで幕を閉じる。その「終わり」を書く「オースティン」は、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』とクラスの学生たちの話が中心となる。イランに残る者、出て行きたいと思う者、葛藤する者、恋をする者。回想録が始まる前に「他人の秘密によってみずからの空虚を満たそうとする人々からも守るため」に、名前や詳細を変更しているとの著者ことわりがきがある。そうして守りながら、でもそれぞれの人生を書き留めている。最初、イランに馴染みがない私はそれぞれの名前があまり覚えられず、最初のページに戻ったり、あやふやなまま読み進めていたりしていた。けれど最後の章では、たぶん現実では会うことのない人たちに思いを馳せていて、一人ひとりが実体をもって迫って来るように感じられた。そして自分のことについても省みずにはいられなかった。回想のなかには著者が「私の魔術師」と呼ぶ人物もたびたび出てくるが、ナフィーシーも魔術師のようにその時、その場所で会った人を誠実に浮かび上がらせる。
ナフィーシーが示したフィクションの力は、ここにあるのではないか、と思う。「あの国は大変だね」「かわいそうだね」で終わらせないところ、読んだ側に確かに何かを残すこと。全てを自分の状況に当てはめて考えることはできない。でも、例えば「私たちの文化が性を遠ざけているのは、性に過剰にとらわれているからだ」「この娘たちは、私の娘たちは、ジェイン・オースティンに詳しく、ジョイスとウルフを知的に論じることができるのに、自分の体についてはほとんど何も知らない」(p.497)といった部分は、日本での状況も考えずにはいられなかった。

『テヘランでロリータを読む』を読むのは二度目だ。一度目は英文学を学ぼうと決めたとき。それから今まで、文学を読んでいて何になるのだろう、と思ったこともあった。でもやっぱり読んできて良かった。そう再び感じられた、特別な本だ。

『テヘランでロリータを読む』
アーザル・ナフィーシー 市川恵里(訳)
河出文庫

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