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剣客商売第7巻 第6話 越後屋騒ぎ

地図で一歩

 池波正太郎著「剣客商売」は、江戸の町が見えるよう!自分も歩きたいなって思って、地図にマークをつけました。各話ごとに作っていて、最初はわからない地名ばかり。段々慣れ、おはるさんちとか道場とかの「まとめ地図」を作りました(最初の目標!)。
 そうなると、もう少し頑張りたくなって(見てくださる方、スキをくださる方、ありがとうございます)今に至ります。
 今まで作ったものは「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。
 江戸以外が舞台の話など、抜けているのもあります。

 ※切絵図はお借りしています。すべて 「出典:国会図書館デジタルコレクション」 切取・回転など、ささやかな加工をすることがあります。
 よろしくお願いいたします。
 ※ネタバレあります!※


地図(画像)

地図1・「越後屋騒ぎ」

1.子ども(伊太郎)の誘拐・・寛永寺
2.捜査:文蔵、長兵衛(⑫妾)
3.1年前の事件(蔵で縊死した手代、身投げした番頭が⑥へ流れ着く)
4.1.のもみ消し・・小兵衛宅に来た手代は⑧で殺された
5.伊太郎と千代を⑩根岸の寮へ。⑬弥七らが待機した寺
6.お弓⑭

越後屋騒ぎ 地図

地図2:寛永寺周辺

 上の地図に書き込んでも、団子になってしまうなぁ。と思い、別レイヤーでマークしました。寛永寺は、徳川の寺なので、明治維新前夜に焼き討ちになり、その後、維新政府の手で公園化されました。子院があった辺りは、鉄道と駅に変ったのではないかと推量しております。

誘拐事件・寛永寺 ➀~⑤小兵衛の歩いたコース⑥爺やが伊太郎を連れていく、⑦子院の道

地図データ

 以下、主として本文抜書です、「51)」は、文庫本のページ数です。変だなぁと思われたら、私にも教えてください。
 本作は、上野寛永寺の子院が舞台の一つになっています。

起こり

 247)鬱蒼とした木立に、蝉が鳴き込めている
 秋山小兵衛は、ただ一人で、不忍池のほとりの道から上野の山内へ通じている女坂をのぼっていた。
 天台宗の関東総本山にして、徳川将軍家の菩提所でもある➀東叡山・寛永寺の寺地は一万千余坪、初代将軍徳川家康を祀る東照宮の社地が一万五千二百坪。合わせて三万坪に近い境内がすなわち、上野の山内といってよい。

切絵図1:小兵衛の帰り道を図化。ちょうど地図の切れ間。

北が右 『秋山小兵衛は、』②湯島天神下の同朋町→池の端仲町から不忍池へ

 上の切絵図、コースミスかもしれないので、下の切絵図のコースでどうかなと思う。同朋町は、神田明神下にもあるし、下の「門奈博十郎(屋敷)」下にも「湯島天神下同朋町」はある。旧浅野屋敷は天神様に近く、突き当りということで、上の切絵図「同朋町」をスタートとした。

切絵図2:250)「池の端仲町から不忍池へ出た小兵衛は、」/247)「秋山小兵衛は、ただ一人で、不忍池のほとりの道から上野の山内へ通じている女坂をのぼっていた。」※(赤線最後)男坂・女坂でペアだと思うので、件の細道のどちらかを辿ったと思うのだが、並んだ細道の奥が女坂かも。私は近い方に赤線を入れたのだが・・・。

北が右 ②湯島天神下の同朋町→250)池の端仲町から不忍池へ出た小兵衛は、上野山内を突切り
※最初・247)「不忍池のほとりの道から上野の山内へ通じている女坂をのぼっていた」

 248)この日の朝も早く・・・。
 秋山小兵衛は、②湯島天神下の同朋町にある、亡き浅野幸右衛門の旧宅へおもむいた。
 250)(帰り)池の端仲町から不忍池へ出た小兵衛は、上野山内を突切り、<車坂を下って入谷田圃から浅草へぬけ、橋場の〔不二楼〕で夕飯をするつもりであった。> <>内は、予定。

上野山内のコース

切絵図:上野山内 北が右。明治維新前夜、全焼した寺は、昔日(この地図)の面影は、まったくないと言っていい。まったくと言っては語弊があり、東照宮:「金色殿などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されており」

女坂(不忍池川の道らしい)→東照宮→大仏殿→中堂→雲水塔の脇から車坂方面へ

 女坂をのぼり切った秋山小兵衛は、東照宮を参拝し、大仏殿の後ろへ出て、中堂を拝し、雲水塔の傍から東への道を取り、車坂へ向かった(上の切絵図に赤線。車坂への道は、凌雲院の細道かもしらん)。

拘引(かどわか)し

251)二人の男が凌雲院と本覚院の間の細道へ走り込んだのを見て、とっさに柱へ身を隠したのだ。二人の男が(子供を拘引した)と直感した。
 すぐに小兵衛は道へ走り出た。
 再び車坂を駆け向かった。子院の間の細道が車坂へ抜けていることを、あらかじめ知っていたからであった。
252)凌雲院の裏手の車坂は、かなり急な坂道である。(前方に男二人)
254)下寺道の向う側にも、寛永寺の子院がたちならんでい、屏風坂下のあたりで、子院の僧らしいのが一人、こちらをいぶかしそうにながめている。
254)「③明神さまの前の、えちごや・・・」
 車坂をのぼりかえして 凌雲院と見明院の間の道へ出たとき、
256)「爺や」は、本覚院の門前へ這って行き、救いをもとめているうち、息絶えたらしい。

「二人の男が凌雲院と本覚院の間の細道へ走り込んだ」現在は崖・坂の名くらいしか面影がない。

256)③神田明神前の蝋燭問屋〔越後屋半兵衛〕
256)伊太郎が藤八にせがみ、不忍池から上野山内の桜ケ岡へまわり、茶店で白玉を食べたりしてから、本覚院前の道へ出た。

鐘ヶ淵隠宅・文蔵の話

257)④上野北大門町に住む文蔵「越後屋から若旦那の半太郎は来ましたか」
258)⑤神田明神あたりは、湯島の長兵衛のなわばり
 去年の今頃、番頭喜右衛門が大川へ身を投げ、⑥御蔵の二番堀へながれ着いた。
259)〔御蔵〕とは、浅草にある幕府のお米蔵のことで、一番から七番まで、米を出し入れする舟の入り堀が大川〔隅田川〕に面して設けられてある。

264)越後屋の手代が、⑦神田・三河町の菓子舗〔笹屋林右衛門〕方で売っている南京粔(おこし)を持って、小兵衛の隠宅へ訪ねてきた。
267)翌朝、⑧木母寺の境内にある茶店の亭主「渡し場の近くで人が殺されていた」渡し場とは、木母寺の先の隅田村の岸から、対岸の浅草の橋場へ大川をわたる渡し舟の発着場である。

小兵衛動く

269)⑨元長:浅草駒形堂裏の河岸
273)伊太郎とお千代は、長兵衛の差配で⑩根岸の寮(越後屋の寮)へ。
275)(事件の背景判明/1年前)越後屋の手代の宗吉(20歳)という若者が、③越後屋の奥庭の蔵の中で、縊死した。
276)末娘のお弓とぬきさしならぬ仲となり、お弓は宗吉を誘い、⑪巣鴨の乳母、お兼の家へ逃げた。
※小兵衛はもう一度誘拐があると踏んで、迎え撃つことに。

湯島の長兵衛

279)上野の山とは地続きの、⑫谷中の日暮里台に諏訪明神社がある。
 その⑫境内の崖の淵に〔吉野屋〕という茶屋があって、女主人のお金は、湯島の長兵衛の妾であった。
286)⑩根岸にある越後屋の寮が、曲者どもに襲われた。
 越後屋の寮は、⑩時雨岡の不動と小川をへだてた南側にある。
288)曲者どもは小川を渡り、田圃道を北へ逃走
293)弥七と文蔵は、⑬根岸の西蔵院という寺(待機)

切絵図:北が左。川は石神井用水で、小さな川は記載なし。不動尊の道をへだてた南側(右側)に越後屋の寮があると思われる。三冬の寮よりも奥だ。

切絵図1北は左・根岸谷中辺絵図より
切絵図2同じ場所、北は右/時雨岡の不動堂は「五行松」と絵・今戸箕輪浅草絵図より

後日談

295)お弓は⑭浅草の東仲町、仲本屋という小間物屋ではたらいている。

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