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喉から手が出るほど欲しかった日本一の称号は、人生を一ミリも変えてくれなかった


わたしは高校生のとき、日本一になった。

小学生のころからソフトボールをはじめ、中学生はとなりまちの強豪校に越境。片道自転車1時間かけて通うほど、ソフトボールの魅力にのめり込んだ。高校は地元の兵庫県から離れ、岡山県の高校に特待生として入学した。

携帯、恋愛、遊びに行くこと、髪の毛を伸ばすこと、眉毛を剃ること、スポーツコース以外の人たちと話すこと。ソフト部はこれらがすべて禁止だった。

日本一をとることだけを目標にして練習する日々。日本一にさえなれば有名になり、自分の人生が変わると信じて疑わなかった。

でも、現実は想像とはかけ離れたものだった。

念願の日本一にはなれた。でも、次の日に訪れたのは、いつもとまったく変わらない朝。まちを歩いても声をかけられることなんてないし、同じようによろこんだのはチームメイトと身内だけ。

すべてを犠牲にして成し遂げた日本一は、人生を一ミリも変えてくれなかった。

それでもいま、わたしは幸せな人生を送ることができている。

世界中を飛び回りながら、好きな国でソフトボールをすることができている。そして、日本一をとった瞬間には変えられなかった人生を変えることができているのだ。

これは「日本一」という称号を最大限に活かし、世界中で大好きなソフトボールを続けながら独立するまでのお話です。

オリンピックで活躍した方、学生時代に実績を残した方、そしてこれからスポーツの世界でトップを目指している方が、今後生きる上でのヒントになったり、厳しいスポーツ界でがんばりたい理由を考え直すきっかけになればうれしいです。

日本一に対する理想と現実のギャップ

高校3年生のインターハイ。

勝ち続ければ日本一、負ければそこで引退。1、2、3年生の想いをひとつに私たちは日本一になった。監督、コーチ、キャプテン、マネージャー、ベンチに入れなかった同期の仲間を順番に胴上げし、泣きながらみんなでよろこびあった。

その日の帰り、わたしは禁止になっていた携帯をはやく返して欲しくて、キャプテンに「監督に携帯返して欲しいって言ってきてよ!」と伝えた。

キャプテンが監督のもとから戻ってくる。ワクワクしながら「どうだった?」と聞くと、キャプテンがわたしに激怒。監督に「試合のあいだもそんなしょうもないこと考えとったんか!」とゲキを飛ばされたと。結局、携帯は返してもらえないどころか、返してもらうタイミングを失ってしまった。

「携帯を使うことも我慢して、恋愛も禁止で、遊びにいくことさえもダメだったのは全部日本一をとるためでしょ?なんで日本一をとったのにまだ禁止にされなければいけないんだろう…。」

日本一をとって、一番はじめに感じた「日本一」に対する理想と現実のギャップだった。

突然襲ってきた虚無感

華のJK時代は、思い描いていたかわいくておしゃれなイメージとは正反対だった。ベリーショート、眉毛はボサボサ、暗い場所に行ったら顔が見えなくなるくらいこんがりやけた肌。お世辞にもかわいいと言えないような高校3年間を過ごしてきた。

それもすべて日本一のため。日本一にさえなれば、すべてのことから解放され、注目の的になり人生が変わると本気で思っていた。

でも日本一になったあとにおとずれたのは「いつもと変わらない朝」だった。

大学2年生の秋、肩に怪我をし絶望を味わう

虚無感を抱えながら、立命館大学に入学。スポーツ推薦枠を勝ち取れた上に、体育会全体で22名しか入れない半額免除の待遇も受けた。

あこがれの先輩もできて、楽しくソフトボール生活を送っていたが、日本一を目指すことへのモチベーションはなくなっていた。

大学1年生の秋から実質エースになった。ほとんどの試合を任されるようになり、ダブルヘッダー(2試合連続)で完投することも増えた。たぶん、オーバーワークだと思う。わたしは肩に違和感を感じていた。

大学2年生の秋、わたしの肩はまったく上がらなくなってしまった。手を横に広げるだけでも激痛。病院に行ってMRIを撮影するも原因不明。ソフトボールを一生できないかもしれないと絶望した。

1%の希望を信じてオーストラリアへ留学

日本一に対してのモチベーションは失ったものの、目の前の試合で勝ちたい思いは変わらなかった。先輩と少しでもソフトボールがしたい、そんな気持ちで毎試合全力で戦った。

大学2年生から大学ソフトボールを引退するまではほとんど記憶がない。それほど迷っていたし、辛かったんだと思う。

肩を怪我したあと、病院だけでなく、凄腕(すごうで)と言われる整体師の方にも診てもらった。完全に回復することはなかったものの、怪我をした直後よりもかなり痛みは和らいでいった。

大学1年生のころ、わたしはこのまま実業団に入って、さらにスキルがあがれば日本代表もなれるのではないかと期待をしていた。それほど自信があったし、防御率にも結果があらわれていた。

しかし、肩を怪我したあとはパフォーマンスが下がり、日本代表はおろか、実業団に行くことさえも想像できなくなった。

「このままではソフトボールができなくなる」

わたしには一つだけ希望があった。それは海外でソフトボールをすることだった。今は実力的に実業団に入れなくても、海外の情報を持っているソフトボール選手でスキルが伴えば日本代表に入れるかもしれない。

1%の可能性を信じ、大学4年生の秋からオーストラリアにソフトボール留学をした。

誰ひとり、わたしのことを知らない

留学後、いきなりハプニングが起きた。もらえるはずだった奨学金が大学とのやりとりに難航し、一時ストップしてしまったのだ。せっかくオーストラリアまで来ているのに、このままでは帰国せざるを得なくなってしまう。

わたしは知恵をしぼり、ファン獲得に踏み切った。クラウドファンディングを実施し、100万円を目標に立てた。

しかし結果はたった1万円の支援のみ。元日本一のエースがオーストラリアに行ってがんばっているのに。誰もわたしのことを知らないし、応援もしてもらえない。

今考えれば当たり前だ。知らない人にお金を払うほど余裕がある人なんてほとんどいない。でも、当時のわたしは悔しくて悲しくて何者でもない自分が情けなくてたまらなかった。

日本一にすがっていた自分から脱却

日本一になったところで、有名にもなれない。地位も名誉もない。自分が死に物狂いで掴みに行った日本一の称号はなんの意味もなさなかった。

でも、こんなところで終わっちゃいけない。日本一以外の自分の強みを考え直そう。

当時、Twitterのアカウントは750フォロワー。インプレッションが高いわけでもなかったが、他のSNSのフォロワーも合わせれば1000人以上にはなった。

また、オーストラリア留学と同時にブログも書いていた。流入は多くないものの、海外でソフトボールをするわたしに対して少しずつ興味がある人が増えていった。

「クラウドファンディングは諦めて、スポンサー企業を募ってみよう。海外でソフトボールをしているわたしを面白がってくれるかもしれない。」

そんな思いから、何百社以上の企業にメールを送った。大手企業から中小企業までジャンルを問わず、とにかく連絡をしまくった。

するとアスリートと企業をマッチングするサイトの運営者から一人目のスポンサーとして手を挙げてもらった。さらにスポーツショップの店長から「お金はあげられないけど物資提供なら」とサポートしてもらった。

年間数万円の契約だったが、当時のわたしにとって貴重なお金だった。当時、何者でもない未熟なわたしを応援してくれた人には本当に感謝している。

どんな称号も勝手に知れ渡ることはない

わたしの周りには日本代表選手がたくさんいる。でも、ほとんどの選手の名前を周りの友だちに言っても知られていない。

大谷翔平選手、本田圭佑選手、羽生結弦選手。誰でも知っている選手もいるが、スポーツ界に興味がない人でも知っているのはこのあたりではないだろうか。

彼らはメジャーなスポーツで、テレビやメディアでもよく取り上げられるスポーツの一種であり、今までにないくらい日本人史上初の戦績を残してはじめて有名になったのだ。

わたしは高校のときに日本一になった。でも、ソフトボールはメジャー競技とは言えない。わたしも圧倒的な成績を残せたわけではない。毎年行われるインターハイで優勝したチームの一員なだけだ。わたしが優勝したことを今でも覚えているのはソフトボールマニアと身内と友だちになった人くらいだ。

どれだけすごいことをしても「すごいね!」と言われて終わる。これはスポーツ界に限らず、どの業界でもどれだけすごい実績を残しても起きる現象だと思う。

わたしは日本一にすがっていた自分から脱却した。多少メディアに取り上げられてもすぐ忘れられてしまう。日本人全員が知っているような選手には到底なれない。

メジャーな競技で圧倒的な成績を残せない限り、競技でがんばること事態がお金や地位に変わることはないと思う。

スポンサーだけで食べていけるのは1%にも満たない

わたしは3年間でスポンサーと30社契約した。一見、めちゃくちゃお金を持っていそうに見えるが、総額100万円程度だ。

つまり、スポンサー契約だけでは1年も生活できないのだ。

スポンサーだけで食べていける選手は、そこそこメジャー競技でオリンピックに出場するほどのレベルか、運よく相性がいい企業と契約できるケース以外ないと思う。

スポンサー獲得、クラウドファンディング以外にもファンクラブの設立、グッズ販売。アスリートがお金を得ようとするルートは一通りやった。

3年間でスポンサー契約30社、クラウドファンディングで集めた総額は250万円以上、ファンクラブも月3万円程度入ってくるようになった。グッズもたまに売れた。でも、やっぱり金銭的にずっと苦しかった。

コンビニで100円セールのおにぎりを買うのもちゅうちょした。家賃も交渉して安くしてもらったこともある。残高はしょっちゅう10万円を切っていた。

正直、一般的なアスリートの何倍もスポンサー獲得に注力して動いてきた。アプローチした企業は少なくても200社にのぼる。周りの人に営業方法を教えて試行錯誤もかなりしてきた。それでも100万円程度しか集められないのだ。

スポンサーを獲得する方法を教えてきて、1ヶ月間で11社のスポンサーと契約した女性がいる。彼女はパラリンピックを目指していて、日本代表にもすでに選ばれている実力者だった。

それ以外のアスリートでスポンサーがついたケースもあったが、高額支援をしてもらっている人はほとんどいなかった。

2018年〜現在まで3年以上アスリートからの個別相談を受けてサポートしたことで、スポンサー費用だけで生活することはかなり難しいと改めて痛感した。

残りの99%のアスリートはどうするのか

わたしはスポンサー獲得に難航したとき、頭をかかえた。このままでは一生スポンサーにおんぶにだっこになる。そもそも自分でお金を稼げるようにならないと生活もできない。

そんなとき、わたしは自分でビジネスの世界に入ることを決めた。誘われた仕事はすべて引き受けて走り回った。メディアや自身のブログなどで1000本以上の記事を書いたし、マーケティングの本を半年で10冊以上読んだ。

とにかくがむしゃらに動き回り、お金を稼ぐことに注力した。最初は格安で仕事を請け負い過ぎて体を壊すこともあったが、明日を生きるために、そして自分がアスリートして自由に生きている様子を発信するために全力で取り組んだ。

人生を変えた「ライティング」

色んな仕事をしてきたが、一番ためになったのがライティングだった。マーケティングも非常に役に立ったが、文章の力は本当にすごい。

まず、ライティングができるだけで書くこと自体がお金になる。

はじめはアスリートへのインタビュー記事を1記事2000~3000円で80本程度書いた。ほかにもジュエリー系の記事も書いたことがある。最初は格安で書いていたが、今では1記事5万円の案件をいただいている。

ライティングスキルは、クラウドファンディングにも生きた。はじめてのクラウドファンディングは失敗したものの、その後、3回中3回すべて成功したのは、自分の想いを文章に乗せることができたからだと思う。

お会いしたことがない方に10万円を支援してもらったこともあった。理由を聞くと「本庄選手の記事を読んで感動したから支援しました」と言われた。

はじめてお会いしたときには、わたしはアイドルかよ、と突っ込みたくなるくらい相手の手は緊張で震えていた。文章でわたしの思いが伝わった何よりの証拠だった。

さらに、自身の経験が評価され、現在はクラウドファンディングのサポートをしている。CAMPFIREと個人でキュレーション契約を結び、完全成果報酬でプロジェクトオーナーをサポートしている。文章を書くだけで10万円以上報酬がもらえることもある。

それだけではない。先日、わたしの友人のクラウドファンディングのサポート時に支援者を募るためのメール文章を作成して送り続けた結果、1週間で80万円を集めることができた。わたしがサポートに入る前まで40万円で止まっていたのに、ネクストゴールだった120万円をあっという間に達成してしまったのだ。

「競技を続けながら稼げる仕組みをライターで実現できるのではないか?」

いままで誰も取り組んでこなかった「ライティング✖️アスリート」のカタチ。わたしがライティングで稼げることができたんだから、きっとほかのアスリートにもできるはず。

営業はわたしがやる。アスリートには執筆してもらいながら成長してもらう環境をつくればいいじゃないか。

いまのわたしなら、アスリートが時間や場所に捉われずに働ける環境を提供できると確信した。

「実績があればスポンサーがつく幻想」を壊す

アスリートのほとんどは、「実績さえあればスポンサーがつく」と思っている。スポンサーまではいかなくても、メディア出演をしやすくなったり当たり前のように注目を浴びやすくなったりすると考えていると思う。

でも、それはほとんどの確率で叶わない。メジャースポーツであり、自分が圧倒的な結果を残さない限り、あり得ない話だ。

アスリートのなかには、現状を変えたほうがいいことに気がついている人もいると思う。でも、スポーツをがんばることでしか自分を表現できなかったり、アルバイトをしながら競技を続けることしか選択肢にないのかもしれない。

わたしはアスリートにもっともっと自由になってほしい。楽しく競技を続けたい、海外で競技を続けたい、子どもを産んでから競技復帰したい。どんなカタチでもいいから、競技を続けたい人が競技を続けられる環境をつくりたい。

時間と場所に捉われないアスリートを輩出する

2022年2月、場所や時間に捉われずに働ける「ノマドアスリート」をローンチした。実践的に学びながらライティングだけで月20万円を稼げる人を輩出していく。

アスリートがライティングスキルの向上に集中できる環境をつくるために、営業はすべてわたしが担う。

わたしと同じように金銭的に苦しい思いをするアスリートを一人でも減らしたい。学び方や方向性を間違えなければ確実にお金が稼げるようになる。

ライティング力だけでも稼げるようになるし、セールスライティングにも生かすことができる。

実績だけで食べられるようになる幻想から抜け出し、時間と場所に捉われずに、世界中で好きな競技を好きな場所で続けられる環境をつくっている。

すべての経験が今の自分を形成した

わたしは日本一になり燃え尽き症候群になった。誰からも認めてもらえなくて絶望もした。一度は生きる希望を失った。

でも、あのタイミングで日本一になったからこそ自分に向き合えたのだ。

当時はソフトボール界隈の人としか関わっていなかった。だから日本一の価値を客観的に見れていなかった。

でも、オーストラリアに行き、スポンサー獲得をしたことでソフトボール界隈以外の人との接点ができ、冷静に自分の立場を理解することができた。

奨学金が止まったときは、本当に焦った。でも、あのとき奨学金が止まったからスポンサー獲得をはじめることができ、ライティングと出会うことができたのだ。

いま思えば、すべてのできごとは今の自分に必要だったのだ。

すべての経験は、必ず人生のカテになる。日本一になったあと絶望したことも、はじめてのクラウドファンディングで失敗したことも全部いい経験だ。今後、辛いことがあっても「あのときよりは今の方がマシだ」と思って、金銭面で苦しむアスリートを減らすためにあとはがむしゃらにがんばるだけだ。




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