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オンラインカウンセリングの世界

禍が起こるとき心のサービスが発展する

 少し前に、withコロナの時代にオンラインカウンセリングをお母さん世代に勧めるファッション誌の取材を受けた。ほんの数カ月前までの世界では、カウンセリングについてファッション誌に特集が組まれるなんて誰も予想しなかったことだろう。コロナはよくも悪くも世界をがらっと変えた。

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 コロナは急な感じもするけれども、実は、禍が起きてメンタルヘルスサービスにスポットライトが当たるのは繰り返す歴史のパターンだ。古くはベトナム戦争まで遡り、退役兵の奇異な行動は消えない心の傷(トラウマ)によるものと理解を得て、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が世に知られるようになった。その後の数々の戦争、地下鉄サリン事件、3.11など社会的にインパクトを与える震災や事件のなか、社会のスポットライトが当たり、支援職の中でもケアの在り方や方法について議論され発展していった経緯がある。皮肉なことに、人が苦しむとき、心理臨床の存在意義が確かめられ、躍進するのである。
戦争や災害は、差別や偏見といった多くの二次災害を生んだが、今回の疫病は、”悪者”とされる物事を生み出しやすかったように思う。「ウィルスが悪い」「ウィルスをまき散らしたやつが悪い」「ウィルスを防げない制度が悪い」。悪者探しの機動力は、不安や恐れであり、さらに差別や偏見を生んでいく。
物理的に生活が立ち行かなくなることも去ることながら、行動も心も考えも閉塞的になっていくなかで、心のサポートが重要なことは言うまでもない。ディスタンスを保つことで繋がりや拠り所からも隔たるなか、無形のサービスである心理臨床はオンラインで相談者とカウンセラーを繋ぎ、提供されるようになった。

PC越しに展開されるカウンセラー・クライエント関係

方法がオンラインになっただけと思うかもしれないが、オフラインと全く変わりないわけではない。関係性の築き方にも違いがある。ビデオ通話・音声のみ・メールの順で、言語的なもの以外の情報が少なくなる。その場の空気・雰囲気は双方にとって伝わりづらいこともあるかもしれない。カウンセラーとしては、与える印象・見え方を意識したり、できる限り情報を拾い集めようとしたりして、かえって表情の機微や声色、些細なしぐさへの完成は鋭くなったように思う。ただ、相談する立場からは、場を共にしている感覚が薄いことが存在の生々しさが和らぎ、緊張感が緩和するという意見もある。自分の居場所で守られた場にいながらカウンセラーと話す安全に人間関係が築ける都合のよさ、体臭や体温、汗や呼吸音のないバーチャルに親しんだ世代の人間味の受け入れにくさなのかもしれない。
そして、相談する立場からするとどこからでも参加できる利便性がある一方で、オンラインカウンセリングはボタン一つで交流を断ててしまう手が届かない危うさもある。したがって、死にたいと思う気持ちがあったり自分を傷つけたり人を傷つけたりする恐れが認められる場合は、適応外となってしまうことがあり、かえって窓口が小さくなる側面もあるのだ。

カウンセラーサイドから

オンラインは、繋がりを生む方法でありながら、繋がりにくさも同時に課題となる。リモートワークでは、雑談や気軽な質問がしづらいなどといったことから心理的安全性が低くなる傾向が認められている。支援職であればなお一層深刻だ。なぜなら、支援以外の目的で同意を得た関係者以外に個人がわかる情報を口外しない守秘義務を担っており、ただでさえ気軽に相談できないなか、同僚がおらず話すことができないからだ。自分やクライエントさんが危険な状況であることに自分で気づかないまま抱え込んでしまう事態も起こりかねない。
禍が起こるとき、その渦中にいる人のケアの方法について議論しサービスは発展した。しかしながら、ケアされる人とケアする人の境目は存外曖昧であり、支援者自身もその渦中に存在している意識も必要だろう。今回の疫病は場所や時を選ばず平等に禍を及ぼしている。支援者のセルフケアは勿論のこと、カウンセラーサイドからも支援の在り方について議論する必要性があるように思う。

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