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水仙、そして『水仙』

 太宰治の短編に「水仙」という話がある。この作品は、菊池寛の小説『忠直卿行状記』をベースに、主人公である僕の身の回りで起こった出来事をなぞらえて展開する物語である。
 
 まずは、この『忠直卿行状記』のあらすじを紹介しよう。
剣術の上手な若い殿様が、家来たちと試合をして片っ端から打ち破」り、「大いに得意で庭園を散歩してい」たところ、「家来たちの不用心な私語」である「いやな囁きが」聞こえてきた。それは、
  
  「『殿様もこのごろは、なかなかのご上達だ。負けてあげるほうも楽に
  なった』」
  「『あははは』」

というものだった。これを聞いてからの殿様は、「真実を見たくて、狂」ってしまう。「家来たちに真剣勝負を挑んだ」のである。それでも家来たちは本気で対せず、殿様が勝ってゆく。もちろん家来たちは死んでゆく。これにより「狂いまわ」る「おそるべき暴君」となった殿様は、お家断絶、監禁の身となった。
ざっとこのような内容である。
 
 『水仙』の主人公、僕のある出来事においての「忠直卿」とは、生家が親しくしているお金持ち、草田惣兵衛の妻、草田静子のことである。この夫人は、実家もたいそうなお金持ちで、一流の貴婦人だった。しかし、後に実家が破産し、「非常な恥辱と考えた」夫人は「ひどく」変わってしまう。そんな夫人を慰めるために惣兵衛は洋画を習わせる。そして、惣兵衛はじめ、絵の先生などあらゆる人々が夫人の絵を褒めちぎった。結果、逆上した夫人は「あたしは天才だ」と口走り家出をする。最終的には、堕落した暮らしを送り、耳が不自由となり、惣兵衛に引き取られ、自殺をする。
 
 夫人はこの遊び暮らす間に、「ちょっと気に入った絵が出来」たと思い、僕に見てもらおうと家を訪ねることが一度あった。僕は、惣兵衛から夫人に家に帰るよう説得してほしいと泣きつかれていたこともあり、夫人を諌める。しかし、悪びれる様子もなく、高慢なもの言いと態度をとる。この時、僕は「失敬なことを言う」このお客を追いかえした。この様子は次のように書かれている。
  
  「僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにし
  ている。僕には、信じている一事があるのだ。誰かれに、わかってもら
  わなくともいいのだ。」
 
 その後、静子夫人より僕のもとに手紙が届く。耳が聞こえなくなったこと、実家が破産したこと、そのために草田家にいるのがつらくなったこと、僕の家に絵をほめてもらうために一度押しかけたこと、その際にさんざんな目にあい、正気になったこと、自分の絵はとても下手だったのに周りにおだてられていたと気付いたこと、けれどもその時には、生活は引き返すことができないところまで落ちてしまっていたこと、そのため絵をすべて捨てたこと、などが記されていた。この手紙のなかで僕について抱いた素直な気持ちを夫人は綴っている。
  
  「私は、あなたの気ままな酔いかたを見て、ねたましいくらい、うらや
  やましく思いました。これが本当の生きかただ。虚飾も世辞もなく、そ
  うしてひとり誇りを高くして生きている。こんな生きかたが、いいなあ
  と思いました。けれども私には、どうすることもできません。」

 さて、タイトルにもなっている「水仙」が登場するのは、物語の終盤である。
 
 僕は静子夫人からの手紙を受けて、書かれていた住所を訪ねる。その時、僕は急に彼女の絵が「いい絵だ、すばらしくいい絵だ。きっと、そうだ」と「妙な予感」がして「静子さんの絵を見た」いと思う。しかし、絵は一枚も残っていない。静子さんは今後、絵を描く気は「ハズカシイ」のでないと言う。帰るしかない僕は、彼女が通っていた老画伯のアトリエを訪ね、夫人の絵を見せてもらう。たった一枚、そこに残されていたのは「バケツに投げ入れられた二十本程の水仙の絵」だった。それは、「断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。」
 
 『忠直卿行状記』の殿様と草田氏の夫人である静子は、自分の力量、技術に確かな自信が持てなかった。自身に信じる物事があり、ゆるぎない信念を持っていれば、虚ろにさまよい、狂うことなく、何も問題は起こらなかった。そして、この二人に共通するもうひとつは、高貴な人、という俗人とはかけ離れた身分であり、世間と隔絶された暮らしをしていたため、ある種の孤独を持ち合わせていたであろう点といえる。
 
 登場した「水仙」には、花言葉である「自己愛」や「うぬぼれ」、「自尊心」を重ねることができる。これらの言葉の対象となる登場人物は、殿様と静子夫人だけではなく、主人公の僕自身も含まれている。先のふたりと、僕との違いは、僕が「俗人の凡才」だと自身で言い切っている点である。そして、前述のとおり「僕には、信じている一事があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくともいいのだ。」と確固たる不動の信念を持っていたことである。ちなみに僕の職業は、少し売れはじめていた貧乏な小説家である。
 
 この太宰の文学作品『水仙』は、花言葉やその元となったギリシャ神話の美少年、ナルシスをも踏まえ、人(芸術家)は自分の美を信じて、世の中の言葉、批評に心を動かされず過ごすべし、と読み解くことができる。私はさらにここにひとつ加えたい。それは、人はどのような立場であっても、精神が自立していること、自立すること、またそれを意識することが大切で必要だということだ。ここで言う「自立」は金銭的なことだけではない。他人だけに評価を委ねることは、自分が確立できていない、つまり自立ができていない心の状態だと言える。登場人物のこれについては繰り返し述べる必要もなく、前述の静子夫人と僕の言動で伺い知ることができる。(殿様も然り)。
 
 静子夫人は僕の「虚飾も世辞もなく」、「ひとり誇りを高くして生きている」姿が本当の自立した生きかただと思い、「こんな生きかたが、いいなあ」と心の自立をしている僕を羨ましく思う。けれど彼女は、自立する努力をしないまま人生を終える。静子さんは誰の従属物でもないのだから、実家が破産しても恥じることなく「明るく笑うひと」でいられるくらい心に確かな物事をしっかりと持てていればよかったのではないだろうか。
自立ができていないことは、無智にもつながり悲しいことだと思う。
自分らしく生きてくためには、「信じている一事」を確かに持ち続けた自立が必須だと強く感じた『水仙』だった。

『きりぎりす』(太宰治/新潮文庫)収録「水仙」

※次回更新は、2023年3月3日(金) を予定しています。

 

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