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インプットばっかりしてると病むぞ

先週の僕は、なぜかずっとイライラしていた。些細なことでもいちいちムカついていたし、モヤモヤした気持ちが消えなかった。

原因を考えてみると、思い当たる節がいくつかあった。

体調が悪かったせいで、ずっと横になっていたこと。SNSや動画を見てばかりの生活が続いていたこと。頭の中に浮かぶ嫌な記憶を何度も反芻してしまい、しんどい時間が増えていたこと。

結果的に、目に見えてわかるくらい気分が落ち込んでいた。

いわゆる「病み期」というやつだろうか。

過去にも似たような状況になったことは何度もあったし、なんとなく周期的に訪れている気がした。

何度も繰り返すのは癪だから、どのような状況で落ち込んだりイライラしたりしやすいか考えてみたところ、ひとつ思いついたことがある。

ここでは、上記のつぶやきを軸に、考えたことや試したことを解説したい。

暇はメンタルの大敵

前提として、つらい気持ちから逃れるための一番の方法は、能動的に没頭することだと僕は考えている。

暇になるほど、時間を持て余すほど、辛かった気持ちや嫌な出来事を繰り返し思い出してしまうからだ。いわゆる反芻思考である。

反芻思考の怖いところは、自分を傷つけるとわかっているのに癖になり、まるで自傷行為のように繰り返してしまう点にある。

自分にとってネガティブな情報にも拘らず、それが脳にとってはある種の報酬になっているから、ダメだと分かっていても自分ではやめられない状況に陥るのかもしれない。

(※確か反芻思考の傾向と報酬系の活動との間には関連性があったはず・・・ご存知の方はぜひご教示ください)

上述の内容を考えると、暇は気持ちの落ち込みと関係があるようだ。当然「暇にならないように工夫すれば良い」という解決策が浮かんでくる。

暇になれないほどの情報に囲まれた現代社会

ただし、現代は少しだけ状況が違う。僕らは昔のようには暇になれない。

理由はお察しの通り。スマホがあるからだ。

TiktokやYouTubeを開けば、無限に繰り返されるリコメンド地獄。気づけば2時間は溶けている。

Twitterを開けば無数の情報が流れ込んでくる。好きな話題に限らず、誰かが炎上していると、気づいたら深追いしてしまう人は少なくないのではないか。

スマホの登場以前は、ラジオやテレビで特定のプログラムを見るには、決まった曜日まで待つ必要があった。確かに録画はできたが、少なくとも一度放送を待って録画するという手間が存在していた。

今はスマホを開きさえすれば、自分好みの情報が無限に雪崩れ込んでくる。

すごい時代が来たものだ。僕らは頭の中にある隙間を容易に埋めることができる世界線にいる。

「暇から脱出したい」という冒頭の話から考えると嬉しいことだ。

しかし、皆様もお気づきの通り、話はそんなに単純ではない。

過剰なインプットによる弊害

スマホを手放すのは、意外と難しいのだ。

特に疲れている時や体調を崩している時など、他のことに手がつけられない時には、スマホ地獄に陥ることが多い。スマホをやめたくてもやめられない。かといってちょっと頑張らないと始められない作業には手が伸びない。

結果として、アウトプットに比べて圧倒的にインプットが多い状況になる。

スマホによるインプット地獄の怖いところは、だんだんと情報がループしてしまう点にある。さっき見た記事や動画がまた出てくる。なんとなく他のこともしたくないから再度開いてしまう。

こうなると、インプットは止められないけど頭の中は暇を持て余しているから、更なるインプットを繰り返す。もはや文字通りの地獄である。

しかも、筆者はこういった状況になるほど、情報をなんとなくブラウジングしつつも別のことを考え出してしまうことが多い。いわゆる「ながら思考」というやつだ。

ながら思考の時に限って、昔の失敗や嫌な記憶が思い出されやすい。結局反芻思考と変わらない状況になる。気晴らしのつもりで触り始めたスマホだが、以下のようなループに入って、脳のリソースはじわじわと消費されていく。

仕事を進めないといけない/体調が悪くて取りかかれない

進め方がわからない/取り掛かるのが難しい

手につかない

スマホに逃げる⇄ながら思考

モヤモヤする

先延ばしが悪化する

(以下ループ)

結局、暇から逃げているようで、問題の本質は変わっていない。

怖いのは、インプット自体は気軽に刺激を得られる作業であるため、延々と繰り返してしまい抜け出せなくなる点だ。

簡単に手に入る刺激を繰り返すほど、能動的な作業からの心理的距離が遠ざかっていき、先延ばしが促進される。「ながら思考」の本質も、前進ではなくループなのかもしれない。

このようなループを繰り返してしまうとすると、暇を回避するためにインプットを増やしたのに、結果的には余計にしんどくなるようだ。


おかしい。単純に暇を回避するだけではダメらしい。実際に今回も体調不良が原因で似たような状況に陥っていた。

何とか対処しなくてはと思い、ひとつの仮説を立てた。

インプット過多で心は澱む

少し詳しく書くと、インプット過多になるほど、自分から能動的にアウトプットする機会が相対的に減少し、心が澱みやすいのではないか、ということだ。

仮説が正しいと仮定すると、解決策は単純だ。

アウトプットを増やすことだ。

水も停留し続けると淀んでいく。

適度に流れていくことで、水の美しさは保たれる。

溜まりに溜まった情報や感情を外に排出すればいい。

しかし、アウトプットするにしても、先延ばしにしている作業をいきなり始めるのは難しい。また同じことの繰り返しになる。

対応策として、気軽さを重視してアウトプットを増やしてみることにした。

具体的にとったアクション

散歩する
思いっきり体に力を入れる
歌って大きな声を出す
頭の中にあることをスマホに向かって話す
ラジオ収録をして友人と話す
noteを書く(今まさにやってるこれだ)

アウトプットといっても情報を発信することだけではない。話すことも歩くこともある種の運動だから、能動的に外に働きかけることは全てアウトプットであると定義して、試してみた。

とりあえず散歩を最初にやってみた。道中ではスマホにモヤモヤを吐き出してみたり、力を込めてジャンプしたりしてみた。鼻歌を歌いながら公園を歩いた。

すると、自宅を出る時には相当気が立っていたのに、自宅に戻ることには驚くほど気持ちが晴れていた。この間、たった1時間である。

「ほら、やっぱり効くじゃねえか」

人目もないところだったから、普通に声に出して言ってしまった。

家に着く直前は久しぶりに気持ちが晴れたせいか、27歳にもなる大人が軽快なスキップをかましていた。1時間前と変わりすぎである。

歩くというのは、能動的に身体を前進する作業だ。心の淀みとは対極にある活動なのかもしれない。

さらに、自宅に戻ってから、友人のまーくんとラジオ収録をした。対話は深い思考の世界に連れていってくれる最強の方法のひとつだ。本棚が整理整頓された時のような気持ちよさがあった。

ほんのちょっと歩いて、考えて、話しただけ。それでも、散歩に出る前の自分とは別人になったかのように、気分は晴れていた。

「目的のないインプット」が多すぎるとしんどいのかも

過剰なインプットが良くないという話をひたすらしてきたわけだが、何もインプット全てが悪いと思っているわけではない。

読書にしろSNSにしろ、気晴らしになるならいくらでもやったらいい。暇つぶしとしてのインプットだって、それで気が休まったり楽になったりするならいい選択だと思う。

あくまで気づきにくいが無意識のうちに起きうる弊害について考えてみただけである。生産的に過ごしたいなら別として、何もかも合理的になる必要はない。

あえて生産という観点で考えると、インプットも何かしらの目的を持ってする方が良いのだろう。調べすぎはむしろ弊害になる。アウトプットに必要な情報は何かを先に考えて、インプットの目的を持つことが生産性を上げるカギとなる。

情報の洪水の中で溺れないようにしたい。

まとめ

◎気持ちが落ちている時の暇は大敵
◎インプット過多には注意、暇より怖いかも
◎とりあえず何でもいいから動いてみることが一番の薬
→おすすめは散歩!

※全てメンタル・フィジカルともに動ける状況まで回復したからできたこと。「動くからやる気が出る」もそこそこ元気だからできること。うつ病の診断がつくレベルの時は休息が何よりも大切なので誤解なきよう・・・

正直、シンプルなアウトプットを組み合わせるだけでこんなに効果があると思わなかった。今後モヤっとした時には、とりあえず散歩して、思いついたことをTwitterに呟いて、それをnoteにまとめてみよう。このnoteはその第一歩である。

今後の研究活動と美味しいご飯に使わせていただきます!