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「桜の森の満開の下」の世界をひろげる

ボランティア仲間さんにお誘いいただいて、シネマ歌舞伎「桜の森の満開の下」見に行くことになりました。
老父が整骨院に行っている午前中のお誘いは、とてもありがたいのです。
整骨院の隣におばあさんのやっている喫茶店があり、老父は施術後そこでまったり過ごしてから帰ってきます。
整骨院のスタッフが送迎もしてくださるので、とても助かっています。
そんなワケで、今日は久々のシネマ歌舞伎鑑賞です。
実は、「桜の森の満開の下」は好きなお話で。
下に引用したのは、2020-11-06 に自ブログに書いたものです。
舞台「極上文學第一弾・桜の森の満開の下」のDVDを見たタイミングで書いたものです。
この舞台では、主人公の男が「鼓毒丸」、女が「ツミ夜姫」と設定されているので、わたしの書いたものにも、ところどころその名が出ています。

****以下、自ブログより引用****

原作の感想、というか。
まあ、呼びづらいので、男は鼓毒丸、女はツミ夜姫、と舞台での呼び名に倣うことにするけれども。
あ、ネタバレ全開です。
原作か円盤か、どちらかを見てから読んでいただけたらと思います。

さて。
なんというか…、解釈の難しい作品だと思います。
わたしなんぞは、むしろこの話から直接自分の頭へ流れ込んでくる映像にどっぷり浸る、それだけで別にいいんじゃないかという気はしています。
妖しく美しく、不気味で不思議な世界。
なんともいえない、落ち着かない、不安を掻き立てられる物語。
そんな印象だけで充分な気がします。
それでも、自分なりに、鼓毒丸へ感情移入してもみたり。
ツミ夜姫という女の人となりはどこか掴みどころが無いので、どうしたって鼓毒丸のほうへ気持ちが寄るのです。

桜。
ツミ夜姫。
鼓毒丸にとって、心を落ち着かなくさせる、ただ二つのもの。
怖いものなどなく、後悔も知らない、ある意味、幼い無垢な心を持った男を、不安に駆り立てる「桜」と「女」。
何が、鼓毒丸を狂わせるのか。
そこがこの物語の肝であって、その解釈はひとそれぞれなんじゃないかと思うわけです。
もちろん、坂口安吾自身が込めた思いというのがそこにはあるのでしょうが、作品というのは、作者の筆を離れた瞬間に読み手それぞれの物になるのであって、どう受け取るも読み手の自由ではないでしょうか。
読み手の生き方、経験や教養に拠る価値観、持って生まれた性分などで、どんな物語も受け取り方は変わってくると思うのです。

この芝居で男が「コドクマル」と名付けられたように、「孤独」に対する観念が、ひとつのテーマといったところでしょうか。
そして「ツミヨヒメ」。
「孤独」と、「罪」。
「罪」は、わたしが思うに、鼓毒丸の盗みや殺し、ツミ夜姫の死者を弄ぶ行為、といった具体的なものというよりは、なんだろう、たとえば「原罪」のような…、何の罪も知らずに楽園で過ごしていたアダムとイブが、リンゴを食べて羞らいを知ってしまい、楽園を追放されるというような、そういうイメージかなと思うのです。
かつての鼓毒丸は、恐れも知らず、己の所業を悔いもせず、山での暮らしを退屈とも思わず、ただただ子供のように楽しく過ごしていたのだけれど、ツミ夜姫という、都の文化を知る女と出会い、これまでの己の物差しが全てではないと知ってしまったわけで。
そうなると、他人と比べて自分は?
都人と比べて自分の価値観は?と、初めて不安が生じたのではないでしょうか。
お山の大将だった自分が都ではただの田舎者であると知るのは、鼓毒丸にとってアイデンティティの崩壊とでもいうか、結構辛いことだったと思うのです。
都で昼と夜とを繰り返す苦痛は、山では知り得なかったもの。
都での鼓毒丸は、ちょうど思春期の少年のよう。
齢だけは充分すぎるほどいってても、鼓毒丸の精神は子どもそのもので、それが初めて外の世界に触れ、他人の物差しに触れ、苛立ちや退屈や不安や羞らいを知ったのです。
ツミ夜姫の存在は、エデンの蛇であり、罪のリンゴでもあるのかなと。
鼓毒丸は、実はツミ夜姫に出会う前から、ほんとは薄々そうした自分とは別の物差しがあることに気づいていたのではないでしょうか。
「満開の桜」もまた、鼓毒丸にそれを教えようとしていて、鼓毒丸はそれが恐ろしかったのではないかと思うのです。
花が盛りを迎えて咲き誇り、やがてそれが散って一つの季節が去る―――。
子供のまま、止まった時間の中で、お山の大将を気取っていた鼓毒丸にとって、巡りゆく季節は恐ろしいもの。
満開の花の下で、散りゆく季節を感じることが、鼓毒丸は怖かったのではないのかと。
季節が巡り、己も齢を重ね、時が移ろいゆくこと。
桜が散った後に取り残される、子供のままの自分。
その孤独から鼓毒丸は目を背けたくて。
その不安の正体すら分からなくて。
来年こそは向き合おうと思いながら、何十年を過ごしてしまっていたのでは、と感じます。
そして、やがてツミ夜姫と出会って、都での暮らしの中、移ろいゆく日々を楽しむツミ夜姫と、
跛の女房からさえも取り残されてゆく鼓毒丸。
鼓毒丸は温かい繭のような懐かしい山へ戻りたがるけれども、女たちはそれを望んでいない…。
ツミ夜姫という女は、鼓毒丸よりは一枚も二枚もウワテで、上手に鼓毒丸を宥めていったん山へ
戻ることを承知します。
鼓毒丸は有頂天で、ツミ夜姫を背負って満開の桜の森へ差し掛かりますが、都暮らしを経た鼓毒丸もまた、昔の疑いを知らない男ではあえいません。
そのため、背中に負うた女に対して疑惑の念を生じさせることになったのではないでしょうか。
鼓毒丸はすでに、人の心が一通りでないと知ってしまっているから、背中の女が自分と山暮らしを続ける気など本当はありはしないと悟ったのではないかと思うのです。
いまの鼓毒丸は、日々が移ろいゆくことも知っています。
永遠も、絶対も、ありはしない。
桜はやがて散るのだし、女の心も変わると。
かつてのままでいたいと望む鼓毒丸は、ひとり取り残されるでしょう。
けれど、自分もやがては老いて、この世からあとかたもなく消えると、今では承知している鼓毒丸です。
女はいつまでも美しいわけでは無いし、自分もいつまでも強いわけではありません。
そう悟った瞬間に、背中の妻を鼓毒丸は見も知らぬ化け物のように感じたんじゃないかと思います。
花びらが降り、年が古り。
美しい妻もやがては老いる。
いまはただ、盛りの美しさを誇っているだけ。
生きるものは全て老いて消えゆくし、生きている間もまた、孤独であると。
全てを悟った鼓毒丸は、かつての無邪気な山賊に戻ることももうできません。
跛の女房が待つ都へも帰れない。
ただ、花と時とのふり注ぐ中で、女の骸と一緒に消えていくしかなかったんだと、そんな気がしてなりません。

というか。
果たして、この物語は、どこまでが現つで、
どこから幻か。
どこかの時点で、鼓毒丸は既に桜に化かされ、気が触れていたりはしないのか。
あるいは、この物語全部が、桜の見せた幻かもしれません。
人に顧みられることもなく咲き乱れる桜の孤独が、こんな物語を紡いだだけかも。

それにつけても、鼓毒丸の稚気に反して、女たちの強かなこと。
ツミ夜姫はもちろんのこと、跛の女房もちゃっかり都の暮らしに馴染んで、むしろ山へは帰りたくない様子。
『鬼平犯科帳』桜屋敷の回の長谷川平蔵のセリフ
「女という生きものには、過去(むかし)もなく、さらに将来(ゆくすえ)もなく、ただ一つ、現在(いま)のわが身あるのみ」
というのを、ふと思い出しました。
まあ、今どきそういうことを言うと忽ちフェミニズムに抵触しそうなので、深くは考えないことにしますが、いずれにせよ鼓毒丸が気の毒です。
己のお山で、熊を組み伏せたり、鳥を射たり、旅人を襲って着る物や食べるものを得たり。
それで充分幸せだった鼓毒丸なのになあと。
ピーターパンを無理やり大人にする残酷さが、危い美しさを紡ぎだしているのだと感じました。

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と、こんなことを書いていたのが3年前です。
今回は、はじめて「歌舞伎」版を見ます。
七之助丈の美しさを見るのも楽しみ。
鑑賞後、わたしの中の「桜の森の満開の下」の世界にどんな印象が加えられるか、いまからドキドキしています。

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