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抱いてはいけない感情はない

『妊娠カレンダー』は表題作の芥川賞受賞作品を含む、三篇からなる短編集だ。
小川洋子さんの作品は入り込めるものとそうでないものがあると思っていたけど、本作を読んで彼女の作品を選り好みせずに読んでみたくなった。

表題作の『妊娠カレンダー』は、どこか客観的な冷めた視点で妊婦の姉を見つめる妹が主人公である。何に不満を持っているか定かではないが、生きているうちに沈殿してゆく"他者の言動や行動に対する気持ち悪さ"みたいなものを姉に食べさせる毒薬入りのグレープフルーツに忍ばせているところが巧妙だ。
その姿を見ていると、不思議とこの世に抱いてはいけない感情などはないのだと思えてくる。

また、廃れた学生寮で起こる静かな事件を描いた『ドミトリィ』では、一見語り手の女性が事件の中枢と関わりが薄いように感じられるものの、彼女がこれから新天地での暮らしに対して抱いている不安と寮で起きる不可解な出来事が見えないところでリンクしているように思えた。
物語中、彼女は大学生になる従兄弟に寮を案内することになる。その際、初めての一人暮らしを心配する彼にこのような言葉をかけた。

「一人暮らしでいくら淋しくても、そのせいで哀しくなるわけじゃないの。そこが何かをなくす時とは違うところ。たとえ自分が手にしている物全部をなくしたとしても、自分自身は残るわ。だから、自分をもっと信じるべきだし、一人っきりでいることを哀しんじゃいけないと思う」

『妊娠カレンダー』小川洋子 p.99

生きている限り、喪失はつきものである。実際、この従兄弟も未だ若いのにも関わらず既に父親や好きな女の子との別れを経験していた。
しかし、例えあらゆるものがこの手からこぼれ落ちてしまったとしても、その手に繋がる身体は残る。だからこそ、そこを起点に自分の心だけは信じてあげなくてはならないのだ。
幼い頃から医学辞典を読み、人というものを身体から理解している小川さんだからこそ生み出せた台詞のように感じた。

そして最後の作品である『夕暮れの給食室と雨のプール』では、子を連れて宗教勧誘をする男と彼の幼少期がテーマとなっている。
小学生の頃にプールで泳げず惨めな思いをしたことが、現在も世に適応できてないことと結びついているという点が極めてナチュラルに男の口から語られるが、何気ないところで道を踏み外してしまう感覚にとても共感した。


落ち込んでいる時にたまたま本書を読み始めたが、どの短編も静かで不穏でそれでいて優しく、傷口にそっと寄り添ってくれるような作品だった。

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