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人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (19)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次

ローマの大惨事である時代の終焉

ローマとパリの共和国。フランスの第2共和制はルイ・ナポレオンを大統領に選出。ヴェルディのパリ滞在の2つの理由。ヴェルディ、プロパガンダ的オペラをもう一つ考える。北イタリアの第2回軍事作戦。ノヴァラの戦い。カルロ・アルベルト国王、王位から退位。マッツィーニとガリバルディはローマへ。ローマは仏軍に包囲される。ヴェルディは絶望。
【翻訳後記】
ある時代の終焉。マッツィーニについて。ガリバルディについて。彼らが戦ったピオ・ノノという法王。「全く違った時代」に向けて。

(順次掲載予定)
第三部
「ルイザ・ミラー」と「スティッフェリオ」
(1849;35歳)

予想通り、1849年2月9日、ローマ市の人民議会は、法王領の政府体制は憲法に基づいた共和党政権で、ローマを首都とすると宣言した。議会ではこれを実現させるために、法王の複雑な政治的権利を無効にする決定で乗り越えた。将来、牧師や司教や法王自身も、もしローマに戻りたいということであれば、そのときは彼らも、他の市民と同様、一人一投票権と定める。この議会からのニュースは、民衆が無関心でいられないものだった。共和党派は当然、有頂天の喜びようだった。パリからヴェルディはピアヴェに、自分は「レニャーノ」の後、早く帰りすぎたとぼやいている。彼は歴史的事件を目撃しそこなった。しかし、これは全く不名誉な事件と考える派ももちろんあった。疎開地のガエタから、ピオ・ノノはフランス、スペイン、オーストリア、ナポリのカソリック大国に、武力介入で彼の実権回復を訴えた。

2月には何も起こらなかった。ヨーロッパの大国の政府は皆、法王に同情的だったが、すぐには行動を起こさなかった。スペインとナポリだけでは、法王の権利を復活させる力がなかったし、フランスとオーストリアはお互いを疑いの目で見ていた。イタリアの共和党派は、フランスが新しいローマ(市)共和国を姉妹共和国として公認して、外交によってオーストリアの介入を阻止してくれることを望んだ。不可能ではなさそうだった。ポー川流域では、ラデッキーはまだブレシア、ボローニャ、ヴェニスを取り返していなかった。彼の背後のウィーンでは、フェルディナンド皇帝が12月に王位から退位した後、彼の19歳の甥フランツ・ヨーセフに王位を授けるよう迫られていた。自国での問題と経験不足の新しい皇帝の即位で、オーストリアは外国遠征を始めるとは思われなかった。

パリでも前年12月には第2共和制のもとで選挙があり、政権の交代があった。誰もが驚嘆したことに、ルイ・ナポレオン皇子が5対1で、次の候補者、カヴェニャック将軍を破ったのだ。愚直な将軍は勝者と握手をすることを拒んだ。誰もこの選挙結果を説明できなかった。ルイ・ナポレオンはフランスではあまり知られていなかった。それ故に勝ったのか? 他の候補者は皆それぞれ、失敗策で知られていた。ラマティーニはカヴェニャック将軍という独裁者なしでは、共和党派統治ができないことを証明したし、民衆はルイ・フィリッペ指揮下のオルレアン派の中道政策に飽き飽きしていた。したがって、少数の社会主義派と過激派とルイ・ナポレオンしかいなかった。この選挙結果はフランス歴史上、重要なことを意味した。というのは、ルイ・ナポレオンに大統領の権限を与えると、4年後には彼自身がクーデターを起こして、フランス皇帝に格上げすることが可能になるからだ。しかし、1849年の時点では、彼はまだよくわからない人物で、皇太子/大統領のスタイルをとり、予備部隊の将軍の制服を着ていた。彼がイタリア共和党派に人気があったのは、1831~1832年のボローニャ蜂起のとき、彼が改革派に味方して戦ったからだった。だが、彼が時のイモラの大司教、後のピオ・ノノの助けを借りて、オーストリア包囲から脱出したことについては、思い出したくないようだった。それでも彼の皇太子/大統領の立場を利用して、ローマ(市)共和国に影響を与えることは可能だった。ヴェルディは彼に遭っていたし、パリに住んでいたので、そうは考えなかった。彼はピアヴェに、フランスにはそれまで以上に何の期待もできないと書いている。

この時期のヴェルディの書簡は、イタリアの事件に興奮した様子で、文章は点々や感嘆符で飾られている。彼はイタリア人による英雄的行為に歓喜し、パリの仕事が終わり次第、イタリアに飛んで帰ると書いている。しかし、彼はそうはしなかった。ローマの時も、残ることもできたのに、しなかったように、ここでも言った通りにしなかった。それでも誰も彼が一度も銃を持って戦わなかったから、非愛国者と言わなかった。彼の言い訳は、紙に書いたわけではないが、社会状況と個人的なことだった。彼のストレッポーニに対する感情は深まり、彼女はパリにしっかり根を下ろしていた。1月にリハーサルでまだローマにいる時、彼はパリ・オペラ座の理事会に手紙を書いて、以前無効になった契約書をヴィクトリア通り13番のストレッポーニ嬢宛に送ってくれるように依頼している。そして、彼女はそれを受け取った時点で彼の署名入りの契約書を理事会に、返送することになっていた。この法的書類のやり取りは、非常にロマンティックだと言える。というのは、ヴェルディは初めてストレッポーニの住所を公に彼の住所として使っているのだ。しかも彼にはエスカヂェというエージェントがパリにいるのに、ストレッポーニが彼のエージェント役を務めている点だ。彼が彼女を信頼している証拠である。間違いなく、ヴェルディのイタリア不在の私的理由は、ストレッポーニがパリに住んでいることだった。

社会状況の理由の方はポー川流域の事情だった。オーストリア軍が再占領して、革命活動家は皆逃亡してしまった。スイスとの国境のスイス側のホテルは、イタリア人亡命者であふれていた。オーストリア人がどう彼らを処分するかを見守っていた。所有財産を没収するのか、または罰金を課すのか?とても革命分子とは言えないムチオですら、間接的に罰せられた。1847年に彼がヴェルディをパリのストレッポーニの元に残してミラノに戻ってから、彼はマンチュアのような地方都市の小劇場で、主にヴェルディのオペラの指揮をする仕事を始めていた。しかし、戦争が始まると、彼の仕事はなくなり、彼の母親はブセットの音楽マスターの職に応募するように、再び圧力をかけた。しぶしぶ同意したが、それに彼の履歴書は十分なはずだが、友人のブセットの町長は諦めることを進言する。その職はオーストリア政府のシンパが牛耳っていて、ムチオを応募者として真剣に見ないだろうと言った。パルマ公国には再びオーストリア軍が駐屯していて、ヴェルディのような社会的地位のある人間には、特に神経質になっていた。したがって、無名の市民として帰る以外、パルマには近寄らない方がいいとされた。

その間、ヴェルディはナポリのサンカルロ劇場のために、カンマラーノと新しいオペラに取り掛かった。これはヴェルディの友情の証である。彼としてはヴェニスやフィレンツェやローマの劇場との仕事の方が好都合だったが、カンマラーノは脚本を仕上げるのが遅いことなどで、劇場理事会から、訴訟または投獄、または解雇を脅かされていた。実行力のある男なら、こうした脅迫など無視できただろうが、カンマラーノは6人の子持ちの貧乏詩人で、他からの支援も皆無だった。彼の一番の資産はヴェルディとの協働関係で、彼はヴェルディに訴えた。彼にとって幸運なことに、ヴェルディはカンマラーノを助けられる状況にあった。彼はパリ・オペラ座との契約をキャンセルして、ピアヴェには、今はリエンツィや中世ローマ共和国のオペラを書くときではないと伝える。ヴェルディにとって幸運だったことは、カンマラーノはヴェルディの最も優れた脚本作家だったこと。彼はソレラやピアヴェより、注意深くオペラの構成を形成できる。ソレラのように、時折輝かしいせりふを書くことはなかったが、彼の脚本は全体として、滑らかで、明瞭だった。

オペラの題材について、二人が同意したことは、フランチェスコ・ドメニコ・グエッラジというフィレンツェ人が書いた歴史的小説「フィレンツェの包囲」だった。「レニャーノ」同様、オペラは自由獲得とイタリアの旗を振る内容で、特にグエッラジはローマ市共和国の10日後に成立したトスカーナ共和国の設立に大きく貢献していた。冬の間中、ヴェルディとカンマラーノは手紙で脚本を仕上げていき、4月にはナポリの検閲にそのまとめを提出できた。が、すぐに拒否される。理由はこのイタリア全般の政治情勢の中、特にフィレンツェの情勢から、この題材は不適当というものだった。

二人は別に驚きはしなかった。ナポリのフェルディナンド王は、亡命中の法王をガエタに保護して、武力でローマ市共和国を脅迫していた。オペラシーズンの始まりを、共和党プロパガンダ・オペラで幕開けすることは絶対に許さなかった。オペラ・ハウスは王室所属だっただけでなく、宮殿に付帯していた。もし、フィレンツェの代わりに、どこか遠い外国の話にしたとしても、1849年春のイタリア全土の政治情勢では、政府が神経質になるのは当然だった。

ピードモント王国では、ジオベルティが一時的に宰相になった。誰もが彼とピオ・ノノが外交交渉を継続しているのを知っていた。願わくは、法王には宗教的な独立を保証し、彼の領民には憲法制定を約束して、何かしらのイタリア連盟国が出現することを望んだ。ヴェルディはその交渉には全く希望を持っていなかった。彼はジオベルティを信用していなかったし、また法王庁は自ら改革する能力はないと見ていた

結局、交渉は何の結果ももたらさず、ジオベルティは辞任した。彼の引退で、法王を大統領に祭り上げた連盟国形成のアイディアは、実現見込みがないことで消えていく。将来は穏健派が二つの過激案からの選択する以外、道はなかった。一つは法王がイタリア中部で、政治権力を維持すること、もう一つはローマの法王領だけを除いたイタリア全土が武力によって統一することだった。全く新しい案とか、過激案のどこかを変えることは禁止され、法王領問題が平和的に解決される見込みはなくなった。

ピードモントではジオベルティ政府が失脚すると、オーストリアとの戦争を再開する圧力が強くなった。ピードモントにはロンバルディアからの政治亡命者が溢れていたし、カルロ・アルバート王は、自分はイタリア解放のために生まれたという妄想に浸っていた。が、軍を初め多くの民衆は、1848年の戦争で、すでに名誉が汚されたと感じていた。それでもカルロ・アルバートは1849年3月14日、停戦協定を非難して開戦の準備を整えた。

ポー川流域の南にいたオーストリア軍はただちに「四辺地域」の北に移動した。パルマ国ではダンディーで知られたカルロ2世公爵が、オーストリア軍が撤退した後、自分は統治するように生まれていないとして、王位を退く。ローマ、トスカーナ、ヴェニスの共和党派は、ピードモントに援軍を送ることを話し合ったが、どこもその余裕はなく、どこも送れないうちに、ラデッキーはティチノ川を渡り、3月23日、ノヴァラでピードモント軍を破った。カルロ・アルバートは戦死を望んだが、許されなかった。条件をよくするため、長男のヴィットリオ・エマニュエーレに王位を譲る。その後彼は偽装して、一人で馬に乗り、オーストリア陣営を通過して、ポルトガルのオポルトの修道院に入る。夏が終わる前に、彼はそこで亡くなる。

クストッザとノヴァラで終わった二つの遠征は、小王国ピードモントにとって大打撃で、市民は希望をなくし、財源は底をつき、新国王は最も困難な時期に政府を擁立させられた。その状況の中で彼はピードモントをオーストリア占領から救ったと言える。オーストリアとしては、ピードモントをイタリア領土に加えることは喜ばしいところだが、彼はオーストリア帝国の勢力拡大を危険視するフランスを刺激することで、またそれぞれの愛国者たちの運命をオーストリア軍の手に委ねることで切り抜けた。例えば、ヴェニスでは、アドリア海から海軍を引き上げたため、ヴェニスの敗戦は避けられなかった。怒り狂った共和党派は、これは国民の祖国愛を裏切る行為だとなじったが、北部イタリア人は彼がそれしかできないことを理解した。一つヴィットリオ・エマニュエーレ新王がラデッキーの圧力に屈せず、絶対に維持したことは、彼の父親が1年前に発布した憲法に手をつけないことだった。この名誉を守った態度がピードモントの革新派を喜ばしただけでなく、10年後、重要な結果を生み出す。この事実があったため、イタリアで立憲君主制が受け入れられ、また憲法によって市民に発言権を与えることで国民の権利も守られたのだ。

ノヴァラの後、ピードモントからの介入の可能性がないと見たラデッキーは、抵抗を見せる地域を攻撃した。パルマ公国では戦いは起こらなかったが、オーストリア軍が再び占領し、今回はカルロ3世公爵が領主になった。しかし、プレシアでは抵抗が激しく、ヘイノー将軍指揮下のオーストリア軍の残酷さは、ヨーロッパ中のスキャンダルとなる。ヴェニスでは4月から始まった包囲は、次第に餓死を招いたが、市民は勇敢にそれに耐えて、8月まで保った。さらに5月にはオーストリア軍はボローニャをとり、それにより彼らはアドリア海を支配し、ローマ市共和国の裏側も支配下に収めた。しかし、それまでにローマ市自体が包囲されていた。ヴェルディとカンマラーノがまた「レニャーノ」のようなオペラを書く時ではなかった。双方の合意により、次のオペラのアイディアは放棄され、彼らは戻ることはなかった。

包囲されたローマ市共和国の中で、肝心な問題は、ローマ市はカソリックであるか、イタリアであるかだった。フランスは共和国であるにも関わらず、ピオ・ノノの嘆願に応えて軍を送り、市を法王のために取り戻そうとした。ローマ市の民衆は市の城壁に楽団をおき、ラ・マルセーユを演奏したが、フランス軍の砲丸がキャベツに変わることはなかった。包囲中、城壁付近で1ヶ月ほど、小競り合いが続いたが、1849年7月3日、とうとうフランス軍は市に入城する。それでも長い目で見ると、最終的な勝利は共和国を着想し、攻防したマッツィーニとガリバルディに帰した。共和国を壊滅に導いたピオ・ノノではなかった。

マッツィーニはその悲しげな長い顔で、常に黒に身を包み、その姿は印象的だった。そして、温厚ではあるが、常に白と金色に身を包むピオ・ノノとは対照的だった。両方を比べ、どちらが聖者だろうか?間違いなく、マッツィーニは論客で、彼の言葉や著作はイタリア統一の想いを人々に喚起した。彼は「第3のローマ」を唱えた。それは古代ローマ時代のローマではなく、また教会と大寺院のある法王庁のローマでもなく、現代イタリア人のための新しいローマだった。マッツィーニの質素な生活、彼のアイディアの潔癖さ、さらに、彼がイタリア民族のために捧げた何十年もの自己犠牲は国民の注目を引いた。それによって、ローマ市は新しい栄誉を勝ち取った。それ以降、ロンバルディア人、トスカーナ人、ピードモント人、ヴェニス人がイタリア統一を語るとき、彼らはどんどん、その首都、ローマの必要性を語るようになる。それが、マッツィーニがローマ市共和国の敗北の中から生み出した勝利だった。それは彼自身のように、神秘的で、予言じみていた。

マッツィーニ

マッツィーニの黒とピオ・ノノの白の周りに、3人目のガリバルディの赤いシャツがあった。彼も独特の人格と、特徴ある目と声を持つ雄弁家だった。彼の目は澄んだ淡いブルーだったが、感動すると、それは海のような濃いブルーに変わリ、さらに熱狂的になると黒に変わると言われた。彼の声は静かで、落ち着いていたが、そのトーンは低音で、幕がかかったようで、感情的になると震えた。彼の顔の形と構成はライオンの顔のようだが、多くの人にとって、それはキリストに似ていた。人々は本能的に彼に応え、やっていることをやめて、彼の後に従った。彼もローマ市の敗北を勝利に変幻させた。彼のローマからの撤退は、彼自身のように、素晴らしい即興劇だった。

ローマ市共和国が終焉したことは明らかだったが、ガリバルディはイタリアの地で外国勢に降参することはできなかった。代わりに、彼は近くの山に少数の戦士と篭り、抵抗を続けた。彼の4千人の戦士が、フランス軍、ナポリ軍、スペイン軍さらにオーストリ軍、総勢7万に対抗するなど、無理だった。彼の戦士たちはチリジリに去っていき、彼はサンマリノの礼拝室から出ることができなかった。彼は数人を連れて、ヴェニスにも入ろうとした。結局彼は一人で、イタリア半島の共和党地下組織を伝って逃げ、最後は船で脱出した。さらに彼はニューヨークに行き、それから10年間帰らなかった。

ガリバルディのローマ市からの退却路。破線が1849年7月3日から8月3日まで。点線がその後9月2日までの敗走路

ガリバルディのローマからの敗走は、軍事的に見れば、意味のない、まずい疾走だった。が、自由で統一された共和国イタリアのためのプロパガンダとすれば、最高の成功と言えた。偏見に満ちた一部のイタリア人を除いて、全ての同情は、外国軍勢に追われて、イタリア半島を横断した男に集まった。何千という農夫は村に立ち寄った彼を見たし、道端で話もしたし、ピオ・ノノや村の牧師たちが彼を「叫び狂う獣」と形容することは間違いだと気づいた。さらに次の10年間に、彼の士官たちがローマ包囲からの撤退の模様を本に書いて出版される。その本は北部イタリアだけでなく、中部イタリアでも、ヨーロッパ中で読まれることになる。1849年にピオ・ノノを支持した世論も、次第に彼の反対派に変わっていく。

しかし、それはずっと先のこと。1849年は祖国愛を持った人々にとって、大惨事の年となった。3月にオーストリアがピードモントを破り、7月にローマ市が陥落し、8月にはヴェニスも降参する羽目になる。ヴェルディは7月にローマに住む友人のヴィンセンゾ・ルッカディにこう書いた:

ここ3日間、私は貴殿からの手紙を待っていました。ローマの大惨事に私の心がどれだけ沈んだか、想像していただけると思います。すぐに手紙など書かなくていいです。ローマの話はやめましょう! 何の役に立たない。軍隊が世界を制覇しています。それでは正義は?そんなものは鉄兜に対して何の役にも立たない。我々はただ涙するだけ、この不幸を嘆いて。そして、その立役者を恨むだけです。

ヴェニスが陥落したとき、同じような手紙をピアヴェにも書いている。イタリア人は皆どこかで生活を立て直そうとしたが、あのミラノの5日間からヴェニス陥落まで18ヶ月、人々の生活は同じではなかった。段階的な変化がどんどん早くなり、ついには、全く違うものになってしまう、そんな時期だった。毎日の習慣も、市民生活も、社会の慣習も、そして思想も。それはイタリア人全般に言えることだったが、ヴェルディにとってもそうだった。1848から1849年以降、彼の私的生活も、彼のオペラも、以前とは全く違ったものになった。
           <第二部 完>

【翻訳後記】
これで第一次イタリア独立戦争は終わります。1849年7月3日法王を支持するフランス軍がローマに入り、法王は政治的権利を取り戻し、ローマ市共和国は崩壊します。フランス軍だけでなく、オーストリア帝国、スペイン王国、ナポリ王国の軍、総勢14万。
それでもローマ市共和国の中心革命家のマッツィーニとガリバルディは囲いから逃走。それで著者はマッツィーニとガリバルディが勝者だと言っています。19世紀の10何カ国に分かれていたイタリア国とは一体誰の国だったのでしょうか?

革命家マッツィーニとガリバルディはどんな経歴の持ち主で、どんな人物だったか、ここで少し触れたいと思います。

ジョセッピ・マッツィーニ (1805−1872)ジェノアで生まれる。中公文庫の「世界の歴史」によると:

マッツィーニの父は、ジェノアの医者であった。少年時代、体はよわく、神経質であり、医学を学ぼうとしたが、解剖室がたまらないので、法律を勉強して弁護士になった。表現力は天成のものだったし、精神力は不屈と言ってもよかった。1830年、カルボナリに入党したが、自分で語るところによると、当時、カルボナリは弾圧につぐ弾圧の結果、儀式もかなり簡略になっていた。30年、文筆活動のために警察に捕えられ、2ヶ月後に釈放されると、フランスのマルセーユに亡命した。
マルセーユはイタリア亡命者の宿であり、オーストリア、イタリアのスパイの巣になっていた。マッツィーニはマルセーユにおいて「青年イタリア」の組織にとりかかっていた。「青年イタリア党は、進歩と義務の法則を信じるイタリア人の同胞団である。」、「青年イタリア党は共和主義者、統一主義者である。」を掲げて、マッツィーニは党則を作り、機関誌『青年イタリア』を発行する。彼は8つの本部をつくり、翌年34年にジュネーヴ本部から反乱計画をたてた。

この反乱計画の失敗と「青年イタリア党」結成の模様が、この本の第7章の中に書かれていたので、思い出していただくため、ここに抜粋します。

第七章:ミラノでの戴冠式と「オベルト」の初演

革命家マッツィーニと彼の「青年イタリア党」
メッテルニッヒの後年の惨敗は、ヨーロッパの政治機運が19世紀初頭から、国民的運動にどんどん進んでいたことを無視したことに起因している。イタリアではナポレオンがチサルピン共和国を設立したが、その後イタリア王国を設立したことで、その運動は見過ごされた。それ以来、愛国派の活動と、18年後にまだモラヴィア要塞にあるハプスブルク家のスピルバーグ牢獄に繋がれたままのコンファルニエリ伯などの殉教者も出たことで、イタリア人の愛国感情は高揚していた。さらに重要な展開として、全イタリア半島に影響を及ぼしたジェノア出身の革命家、マッツィーニの出現がある。しかし、マッツィーニはイタリアを統一国家にしようとして何回か失敗し、1838年当時はロンドンに亡命中だった。彼は1848年に戻るまで11年間、外国亡命生活を送る。帰国の翌年、あの不運なローマ共和国の第一‘3人執政官’を務める。
メッテルニッヒが外交的に圧力をかけ、マッツィーニをうまくピードモントから追い出し、さらに亡命先のフランスからも、スイスからも追い出し、遠く英国に追いやったことで、影響力が弱化したと考えたのは間違いだった。遠くなった距離で、反対にますます影響力は強化された。マッツィーニ自身が武力革命行為を指揮するなど、具の骨頂である。1834年に彼がスイスで400何人かの国際革命家たちを招集して、ピードモントを攻撃しようと計画したことがあったが、その半分もが行動に参加できなかった。スイス警察は珍しくジュネーブ湖で湖上警備にあたり、1月の厳寒になって、革命の熱い血が冷えるのを待った。残りの半分の革命家たちは、国境は超えたが、革命声明文を読み上げるにも、ドラム演奏もなく、せいぜい自由進歩的思想を植え付けただけに終わった。このエピソードは「ある天気の良い日曜日に、、」を目撃しようと集まったスイス人の間の冗談になった。それに1月は革命に向かない。惨事を予測し、2日目には革命家たちはバラバラに散り、観光客を装って、逃亡した。革命のリーダーたちは、この失敗をある中心人物のせいにした。
イタリアでのマッツィーニの革命実現の試みは、そんな具合だったかもしれないが、パンフレット作家としては、亡命中、旧約聖書からの引用も入れた、力強いものだった。1831年から1834年まで、彼はマルセーユに住んで、新しいグループ、「青年イタリア」を結成した。イタリア半島の北から南まで、その事務所や連絡所が張りめぐらされた。彼らの行動は恒久的な結果は産まなかったが、マッツィーニは若いナポリ人、ローマ人、ジェノア人などに、自分たちはイタリア人で、半島はイタリア国で、ローマが首都、そして政治は共和国だと教育した。つまり、コンファロニエリ伯のような進歩派貴族も支持する広範な政治的ベースを造った。ヴェルディは秘密結社の支部に属さなかった。メッテルニッヒもだが、双方とも、マッツィーニのメッセージは聞いたし、理解していた。当時のイタリアの空気に中にあり、ミラノの戴冠式に集まった群衆の上に覆いかぶさっていた。

1834年1月の極寒期に計画した反乱は失敗に終わりますが、

スイスでマッツィーニは青年ヨーロッパの構想をまとめ、「青年スイス」「青年ドイツ」といった支部を作り、革命運動を国際的干渉のもとに続けるためには、反動的全ヨーロッパに対する国際阻止、青年ヨーロッパの形成より他に方法のないことを知り、「各民族は人類の一般的使命に向かって協力する特別の使命を持っている。その使命は民族性である。民族性は神聖である。」と説いた。

中公文庫「世界の歴史」第12巻

マッツィーニはこの後、ロンドンで亡命生活を送り、1847年6月に「群盗」初演のためロンドンに行ったヴェルディと会っています(第15章)。そのあとミラノの栄光の5日間があり、彼もミラノに戻りますが、第一次イタリア独立戦争が始まり、6月にはピートモント軍がラデッキーに敗北。マッツィーニは再びスイスに亡命します。ヴェルディはミラノで会ったときに頼まれた「トランペットの響きに」に曲をつけて、丁重な手紙を添えて、彼に送ります(第17章)。1849年2月にローマ市共和国が成立したときには、マッツィーニはその政府に参加しますが、6月にはフランスの第2共和制大統領に選出されたルイ・ナポレオンの指示でローマ市はフランス軍に包囲され、彼はまた亡命することになります。

次にガリバルディについて。
彼は(1807−1882)フランス帝国のニースで生まれます。
革命家としてだけでなくガリバルディがどんなに優れた人間だったか、この著者ジョージ・マーティンも書いていますが、中公文庫「世界の歴史」第12巻にはこんな記載があります。

イギリスの優れた近世史家トレヴェリヤン(1876年~ )がガリバルディの伝記を書いたのは、なにか専門違いの感じを与えないでもないが、私はこの歴史家が、ガリバルディに打ち込んだ気持ちがわかるような気がする。たましいの清純さ、野蛮人の素朴さ、こまやかな愛情、強健な体躯、不屈の闘志――こういう人間像は、イギリスやフランスでは見ることのできない男性の理想像である。
ニースに生まれて水夫になり、祖国の解放戦争では苦難を犯し、、、

彼が生まれた当時、ニースはナポレオンのフランス帝国の一部で、1814年のウィーン会議でジェノア中心の公国に戻されますが、国民選挙でピードモント王国の一部になります(この複雑な歴史が彼の祖国感を複雑にし、後にカヴールと衝突する原因になります)。同じジェノア出身のマッツーニとは1833年に会い、彼が計画した1834年1月の革命蜂起にガリバルディはジェノアで参加しますが、仲間の裏切りで不発に終わり、彼は捕えられて死刑の宣告を受けますが、逃亡します。この後ブラジルに渡り、次10年間南米の革命活動に貢献します。進歩派のピオ・ノノの法王就任のニュースを聞き、イタリアに戻ります。1848年第一次独立戦争が始まると、カルロ・アルバートのピードモント軍に志願しましたが、王から無視され、ミラノの暫定政府に参加します。いくつかの小戦役で勝利を勝ち取りますが、翌年3月ピードモントのノヴァラでの北部イタリア王国は決定的に敗戦。その後彼はローマに行き、成立早々のローマ(市)共和国の共和国軍の対仏軍の攻防戦を率いて、効果を挙げますが、多勢に無勢で崩壊。ローマから退却し、この章の最後にある地図にある道筋を通って国外に脱出します。途中ヴェニスの近くで、病身の妻を亡くします。

私はローマ市の真ん中にあるヴィットリオ・エマニュエーレ記念碑に内蔵されたリソルジメント・ミュージアムで、この戦旗らしきものの展示を見つけました。1849年とあるので、ローマ市攻防戦の時のもののようです。

マッツィーニとガリバルディはだいたい同世代で、ヴェルディよりは10年ほど年上になります。第一次イタリア独立戦争では、両方とも革命家として円熟期。マッツィーニとガリバルディの関係はキューバのチェ・ゲバラとカストロを連想させます。革命が成功するには、理論と武力の両方が必要ということがわかります。

ピウス9世(愛称ピオ・ノノ)

ここで彼らが戦った相手はローマ法王でした。ジョージ・マーティンは彼をこう描写しています。

温厚ではあるが、常に白と金色に身を包むピオ・ノノと(マッツィーニ)は対照的だった。両方を比べ、どちらが聖者だろうか?

即位した当時は進歩的で若い(1792年生まれ)法王として大変な人気でした。ヴェルディは第14章でこの新法王と接点がありました。

マクベス」を終えるまで、新しい仕事の話を断った。断った仕事の一つは、ちょっと惜しいものだった。それは新ローマ法王、ピウス9世の選出を祝う催しがローマであり、そのためのカンタータ作曲の依頼だった。この法王はのちのピオ・ノノである。

一生歴史的な事件と接点の多かったヴェルディでしたが、この時作曲依頼を断ったのは、「マクベス」に没頭していたからだけではなく、彼の宗教嫌い、法王を信用していない態度の現れだったかも知れません。

それから10年、イタリアはピードモント王国の立憲君主制のもとに、議会と政府が中心となって教会改革が進められます。著者の言うところの「全く違った時代」とは、カソリック教会の中世的存在を改革して近代化を推し進めたイタリア国の変遷過程だったと思われます。

これで第二部が終わります。第三部は1849年後半から1861年の夏まで。この間にイタリアの独立運動は違った角度から進展します。ヴェルディは共和政治に直接参加することになります。その前に彼のオペラ作曲は新しい境地に入って、中期3大傑作を含む数々のオペラを生み出します。

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