見出し画像

第27夜◇行き暮れて 木の下陰を 宿とせば~平忠度

行き暮れて 木(こ)の下陰を 宿とせば
花や今宵の 主ならまし


(意訳:行くうちに日が暮れて、この桜の木の下を宿とするならば、花が今夜の主となってくれるでしょう。)

平忠度 平家物語

国立能楽堂にて、塩津哲生さんがシテを演じられた「忠度」を観て参りました。最終場面では涙が止まらず、死生観をゆさぶられる体験となりました。

人は死にたいして、恐怖や悲しみの更に奥深くには、本能的に土へ帰ってゆく安らぎのようなものがあるのかもしれません。花が枯れ、葉が落ちること、それは一つの終わりであると同時に、生命が循環するあかしであるならば、朽ちてゆく悲しみとともに、生命の源へかえる安堵感がともなうのではないか…。

その昔の武将は、遺言として辞世の句を身につけて戦へ赴きました。上述の和歌は、平忠度が一ノ谷の合戦で討たれた際に身につけていたものです。

この歌だけを知っていた頃は、本来の意味を理解できていませんでしたが、今回のお能で気づかされました。行き暮れるというのは、「生きて、生き抜いて、死すべきときが来たならば」ということ。そのときがきたら、桜の精に導かれて、彼岸へと旅立ってゆこう。桜の花が咲き、土に落ちて、根にかえってはまためぐる、安らかな循環の中に、自分もかえってゆこう。これは最後の瞬間を、あたたかく包んでくれるお守りのような歌ではなかっただろうか。

死を想像するとこわい。
それはきっと生涯変わらないでしょう。最後の瞬間まで、もがきしがみついても生きたいと思う。しかし同時に、命あるものはすべて、老いることや死んでゆくことへの安らぎがあるとしたら…。

相反するように思える本能が、心奥底で柔らかな光を発していることに気がついたのでした。

2021年11月10日 国立能楽堂にて
「忠度」 塩津哲生