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「困難」に立ち向かうことばを〜犬飼愛生『手癖で愛すなよ』をめぐって

犬飼愛生さんの新詩集『手癖で愛すなよ』(七月堂)が出たのは、昨年の夏だった。いつも犬飼さんの新作(詩とエッセイ)を『アフリカ』に載せている編集者である私には、すぐに送ってきてくれるので、今回もすぐに一読した。そこでいつもなら、ここ(note)で紹介文を書くところだが、直後に『アフリカ』の切り絵の作者である向谷陽子さんの訃報が飛び込んできたので、あまりの衝撃に、それどころではなくなり、機会を逸してしまった。

アフリカ』vol.35(2023年11月号)には、スズキヒロミさんにお願いして、『手癖で愛すなよ』をどんなふうに読んでいるか、書いてもらった。スズキさんにしか書けない内容が、そこにはあると思った。

例えば、詩集のタイトルにもなっている「手癖で愛すなよ」、コロナ禍詩篇のひとつと言える内容だが、「手癖で愛すなよ」という、一言は、詩の後半に突然、放り込まれるようにしてポーンと置かれている。急に言われて、それが何なのか、よくわからないといえば、わからない。スズキさんはそのことについて、こう書く。

この一行がなかったら、この詩はもっとシンプルな、そのかわり他の作品からこんなにも突き出ない詩になっただろう。詩の中に楔のように打ち込まれた「手癖で愛すなよ」という言葉が、この詩を難解に、しかし引っかかる力のある詩にしている。

(スズキヒロミ「その先の、今の詩集──犬飼愛生『手癖で愛すなよ』を読む」より)

なるほど、そうかもしれない、と思った。それを受けて、また読んでみる。音楽を聴くようにして読んだり、少し離れて、絵を見るようにして詩を眺めてみたりもする。

犬飼さんの詩は多くが、いまを生きる私たちの日常に近いところにある事柄を描いてあるので、入り込みやすいかもしれないが、その中には、サラッと読んで、わかった、とはならない要素が殆ど絶対と言ってよいほどある。それが作品を強くしていると感じられるのだが、これほど鮮やかに「打ち込まれ」ると、読んでいて気分がいい。

この詩の中に、印象的なフレーズは、他にもある。

はじまりも
終わりもないような
あいまいさで怖がりながら
今日の装いに合わせマスクを選ぶ
(白か黒、または違う色で)
あなたか私かわからない顔で
聞こえない声を
聞こうとして
愛がちょっと、困難だ

(犬飼愛生「手癖で愛すなよ」より)

歌謡曲なら、タイトルは「愛がちょっと」でもよさそうだ。でも犬飼愛生の詩において、それでは弱い。
この後に、「息苦しさ」について言及する連(5行)があり、その直後に「手癖で愛すなよ」の一行が「打ち込まれ」る。
この詩は(コロナ禍における「息苦しさ」の幾つかを挙げつつ、でも、じつは)「愛」を問題にしているのである。
詩人はそこで、「愛」の「困難」に立ち向かう。その間に置かれた連(5行)が、立ち向かうための助走のように感じられないだろうか。そこに、どんな動詞が使われているか、確認してほしい。
そして、いよいよ、その一行を、詩人は「投げつける」。
ぶつけられたことに気づいた読者は、そこで何らかの目がさめるはずだ。しかしテレビの中では、相変わらず寝ぼけたように「換気が必要です」の呼びかけが続く。「テレビ」は、「社会」と言い換えてもよさそうだ。

目がさめた読者は、もう「テレビ」の外へ出てゆくしかないだろう。この詩には、そんなパワーがある。社会を100%正しいものとして、従うものとして考えている人からすれば、危険な毒である。

私が考えるに、この一言は必ずしも「手癖で愛すなよ」である必要はない。愛について、強い言い方であれば、何でもいいのかもしれない。詩人がこの一行をどのようにして手に入れたのかは、いつか聞いてみたいことだが、しかしそれを知ったところで、この詩をどう読むかというのには関係ないことかもしれない。

とにかく、犬飼さんの耳には、そのとき、「手癖で愛すなよ」という声が響き渡ったに違いない。
そんな声が聴こえてくるということは、文学作品にとって、それを書く人にとって、そして読む人にとっても、幸せなことだ。

詩集『手癖で愛すなよ』には21篇の詩が収録されていて、『アフリカ』編集人として発表にかかわった作品もけっこうあるので、話したいこと、書きたいことはどんどん出てきそうだが、表題詩「手癖で愛すなよ」だけでこれだけの内容がある。(2024/03/15)

続きは、またぼちぼち書きます。

明日(3/16)まで、TOUTEN BOOKSTORE(名古屋市)2階で「詩集『手癖で愛すなよ』刊行記念 犬飼愛生•寺田マユミ二人展」を開催中。最新情報は犬飼さんのSNSをご覧ください。

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