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2020/8/29感情の記録-言葉が共存することへの高い壁と実現可能性はどこに見出せるのか-

有名なテニスプレイヤーが黒人差別への抗議を表したことで、様々な意見が飛び交っている。この件に関して、私なりに考えたことを残しておこうと思う。

世の中には、たくさんの様子を表す言葉がある。中学校の国語文法の単元で学習した「形容詞・形容動詞」というもの。この単語ひとつひとつが形容詞か形容動詞か、の品詞分類をたくさん学習したという記憶のある方はたくさんいらっしゃるのではないかと思う。
しかし、その言葉の意味や適切な場面を知る授業は少なかった記憶がある。
助詞にも、 主語であることを示す働きをする「の」と、連体修飾語であることを示す「の」があることは学習するが、その使い方の違いや上下の言葉がどのように関係し、どういう印象を持たせているのかを、考えたことのある人は、少ないのではないだろうか。

一応、語彙は文学作品の中で学習している。しかし、例えば、「走れメロス」に出てくる登場人物の感情や様子をイメージするのは結構大変だった、という人は多いのではないかと感じる。

またそれらの具体的な言葉を理解しながら、「文学的文章」の作品の中で、人の気持ちには裏表があったり、正義は場面によって逆転したり、自分の知っている視点とは違うものの見え方があったり、自分の価値観に疑問を抱いたりすることを学ぶ。
そして、「論理的文章」の作品で、なぜそういう人の感情の変化が起こるのか、世の中の不思議な出来事の理由などを、科学的な実験や研究、マクロの統計をもとに考える必要があり、予想だけでは、事実は異なることが多いにある、ということを学ぶ。
さらに、自分とは立場の違う人の感情や思いを知ること、経験したことのない、これからもすることがないであろうことを知ることができるのも、国語の作品たちからだと思う。

それらが「国語」という科目の醍醐味だと思っているのだが、そんなことを考えて、授業を受ける子どもたちは少ないのではないかと感じる。

そして、その結果は、知らず知らずのうちに、生活での豊かさや人の感情、そして多角的な視点を奪い、主観的な判断によるレッテルや、偏見を生んでいるように思う。

可愛さと知的さ。
カッコよさと泥臭さ。
愛らしさとクールさ。
強さと弱さ。
・・・

上記の言葉が共存することに違和感がある人も世の中にはいるだろう。しかし、言葉とともに、私の思う国語の醍醐味を考えていくと、人はどんな感情や内面でも、持ちうる可能性があることが見えてくると個人的には考えている。

また、立場、役割、性別、職業、人種、地位と、感情、思考はまったく異なる。感情や思考を表面に表すべきかどうかは内容によるが、極論で言えば人それぞれだと思っている。

今回、最初に書いた話題。
彼女が何人であろうと、黒人差別に対しての意見を表明するのは自由だし、他者がそれにがっかりする理由はなにもない。
その意見に対して、賛成・反対の気持ちを持つことも自由。しかし、その意見は偏見や差別を含んだものであってはいけない。

しかし、知名度のある人が政治的な発言をするのはよくないという意見や、女性が意見をはっきり言うことは恥ずかしいという声は今でも多く聞かれる。国籍や立場によって肩を持つかを考えたり、人種や地位によって関わり方を変えたり。
それはやはり、忖度で差別的で、偏見を含んでいる。

大学の文学部の立場が脅かされ、規模縮小の話が進んでいる。
そこで「国語科」が与えられている使命は何かを、先生だけでなく、世の中のおとなもこどもも、みんなで考える機会が必要だと感じる。
点数を採ることが大事なのではなく、教科書に並べられたあの選抜された素晴らしい作品から、なにを学ぶべきか、何を知っておくべきか、その要素がたくさん詰まっているのが、あの国語の教科書なのだ。

「豊かな心」といえば聞こえはいいが、そんな簡単な言葉では説明がしきれないし、学び取れることも偏ってしまう気がする。
正義はそんなに単純でないこと、立場によって考えが違うこと、人の思いや意見は変化していくこと、物事を考えるには知識がないといけないこと、論理的に考えた上で対等に話すための知性と言葉が武器となること。
そういうことを、私たちは学ぶ必要があるのではないだろうか、と彼女への意見や考えを見ながら感じる数日。

このもやもやを忘れずにいようと思う。

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